初めて書き込んでみた。

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好きなアルバムはレッド・ガーランド『ミスティ・レッド』です。理由は、『ミスティ』のような有名曲でも、作曲者のエロール・ガーナー以上に美しく弾いた演奏があまりない(と思える)なか、ガーランドの演奏は例外的に素晴らしい出来だと思うからです。

議論を面白く拝見しました。僕は議論するよりも、音を聴くのを楽しみたいほうなのですが、自分の意見としては、クラシック〜現代音楽と異なり、ジャズではプレモダン-モダン-ポストモダンが融合的に出てきている、と思っています。モダンジャズをパーカー以降とする時、ではそれ以前はプレモダンなのか?というと違うと思うのです。アート・テイタムのピアニズムの究極的な完成は、ジャズにはひとつではなく複数の完成態があり得ることを示唆しているように思えてなりません。

ポストモダンというか、最近の表現者に関しては僕は苦手で、マイケル・ブレッカージョン・ゾーンも苦手なのですが、仮にポストモダンということを考えるならば、フリージャズ以降ではないかと考えています。

モダンが主体の自由な自己表出(自己表現)なりといった幻想に支えられていたとすると、それは究極的に「自由」(=フリー)な表現が、ノイズと区別できない境位にまで至ったところにその終焉を見出せるように思えてなりません。そうであるならば、それ以降の表現は、コードであれモードであれ、なんらかの理論に支えられた自己表出は一種の「ネタ」であって、いつでも相対化され崩されるのではないかと思います。

ポストモダンというのとは違うと思いますが、日本の若いジャズミュージシャン、例えば矢野沙織のパーカー回帰などをどう捉えるか?というのも引っ掛かっている問題です。恥ずかしながら僕は彼女が大好きなんですね。でも、パーカー回帰といえば、渡辺貞夫という偉大な先行者がいます。美術家のOさんから聞いた話ですが、アメリカには渡辺貞夫のレコードを「チャーリー・パーカーの生まれ変わり」として愛聴しているファンがいるそうです。モダンへの回帰や反復とポストモダン状況というのも、考えたいテーマです。ナット・キング・コール・トリオや初期のオスカー・ピーターソン・トリオのようなピアノ〜ギター〜ベース編成の山中千尋の『アフター・アワーズ』や、今日発売になったばかりの上原ひろみの『ビヨンド・スタンダード』などの評価にも興味があります。