運命について

今日のラジオで喋ったこと。人生の分岐。あの時の選択。あの日あの時ああしていれば/いなければ、生は違ったものであり得たかもしれないという妄想。昨日あかねで、ぼくはふたつそれを語った。ひとつは大学(学部)を出た時に、普通に企業に就職していれば、今の駄目な自分はなかった。就職氷河期といっても、早稲田だったのでたくさんオファーは来ていた。それを全部無視して大学院に行ったのは今思えば無謀な選択だったかもしれない。

今日は昨日語らなかったもうひとつの分岐を語った。Q-NAM紛争の末期、柄谷行人からメールで、「すぐにQをやめなさい。さもないと絶交する」旨のメールを受け取った時、柄谷行人に屈服してQをやめたが、そうせずに自分の信念を貫けば今の屈折した自分はなかった。

Tさんは昨日あかねで、「別様であり得たかもしれない可能性」は想像物で、実際には今のこの自分の生が運命だと語った。そしてあかねが閉店するか存続するかも運命なのだと言った。ぼくはその時それに同意した。

しかし、この擬似運命愛?思想には自己欺瞞が潜んでいる。常に別様の選択可能性はあったのであり、「これ」を選択した自分には自己責任があるのである。

Q-NAMの紛争に関しても、ぼく同様柄谷行人から私信で脅迫された倉数茂は柄谷行人の要求を拒否して絶交されているし、意志さえあれば「別の」分岐を選択できたのだ。そのことに目を覆うのは欺瞞的である。大学卒業時に企業に就職しないことを選択したのも実は自分である。後になってそれが愚かで損な選択だと判明したとしても、讀賣新聞浅田彰が語っていたように、そして闇の医療相談室でデス見沢が語っていたように、人生というギャンブルにはやり直しがきかないのである。さいころが投げられたなら、出目を肯定するしかない。それがどんな惨めな生だとしても、一回きりの投擲を肯定し受け容れるしかないのである。

こんな話面白い? つまんないよねw ごめんよ。では、また。