ひとりの受苦者=患者として、精神分析への違和 H先生への手紙1

ぼくはどうしても精神分析の言説と営みを肯うことはできません。それは、精神分析が富者の娯楽だからです。人間誰しも、言葉を喋る存在であることには違いないのですが、分析はその語りと聴取を通じて主体に関する真理を発見すると主張します。精神分析は、哲学でもなければ(物理学や生物学がそうであるような)科学でもない、特異な位置を主張します。その科学性を保証するのは、対話であり、患者の語りへの聴取であるとされます。ミシェル・フーコーは、精神分析を、文化人類学と並べて見せ、他者の語りへの聴取という一致点を見出しました(『言葉と物』)。しかし、それは正当な評価でしょうか。精神分析家は果たして他者=患者の話を「聴いて」いるのでしょうか。精神分析家の解釈投与は正当なものと言えるのでしょうか。それは他者の存在と言葉に曝され続けているようでいて、実のところ全く閉じた営みであり言説なのではないでしょうか。

ぼくはかなり長期間、詳細な夢分析や自己分析を続けましたが、その無意味さを悟りやめました。夢はできるだけ速やかに忘れるようにしています。大事なのは夢の論理ではなく、目覚めた世界であり、そこにおける活動なり創造です。ぼくは夢が無意識への王道だと思えなくなりました。フロイト派の精神科医の俗物ぶりにも嫌気がさしました。大切なのは苦しみがあること、そしてそれをプラグマティックに軽減することではないでしょうか。人間の心理的な苦しみの大半は執着から生じますから、執着から自らを解き放つ営みが必要であることになります。とりわけ、他者からよく見られたいという気持ちをなくすことが大切だとぼくは思います。想定された他者からの眼差しに縛られることは苦痛です。そういう苦痛から、身を引き剥がしたい。