構成(構築)に関するメモ──未完

横浜国立大学フーコーと社会構築(構成)主義についてというシンポジウムが催されるそうで、それに私のマイミクさんがスピーカーとして出席するらしい。素晴らしいことだと思うが、ちょっと議論を整理してみたい。

社会構成主義本質主義への対立項として提起されているが、哲学的にいえばそもそもそれがおかしい。本質主義 essentialismの反対は実存主義 existentialismのはずである。つまり、実存(現実存在)が本質に先立つ、という主張であるはずである。

本質主義と構成(構築)主義の争いは、俗っぽくいえば、遺伝か環境かという全くの経験的レベル(超越論的=先験的レベルを問わない)の二者択一にみえる。多くの活動家は、例えば同性愛になるのが遺伝によるのか、社会環境によるのかという意味でこの二項対立を用いているが、恐らくジュディス・バトラーはそのような単純化に同意しないだろう。何故なら彼女は、ヘーゲル主義のフランスにおける受容(コジェーヴによる講義から始まる)の専門家として出発したからで、当然サルトルにも詳しいはずだからである。

別の見方からすれば、この二項対立は、一切は必然的に決定され尽くしているのか、或いは政治的介入や自由意思、或いは偶然の入り込む余地があるのかどうか、という対立にも変奏される。

しかし、少しでも考えてみればわかることだが、遺伝か環境かというのは二者択一的ではない。何らかの生物学的要因があるとしても、社会(学)的要素が排除されるわけでもないだろう。決定論か非決定論かの争いはより複雑だが、これも重層的決定の概念を導入することで論点がクリアになる。重層的決定とは、原因の数が多過ぎて認識し切れないケースを言う。決定論的でありながら、人間が経験的に見渡せないケースを考慮することで、決定論か自由かという古いテーマを再考することができる。

哲学的にいえば、言い換えれば超越論的(先験的)レベルも考慮していうならば、構成主義とは何よりも主体そのものが「構成されている」その受動的契機を強調する主張である。無色透明で至上の自由を持って自己自身を選択し作り上げる主体(実際には哲学史上存在したことのない戯画的なイメージ)を、それは解体する。主体は、もろもろの言説的実践及び非言説的実践の裡で練り上げられ「構成される」というのだが、それはイギリス経験論とアメリカのプラグマティズムの「習慣」論の伝統を参照すべきだろう。

と、ここで一旦筆を置く(ぉぃぉぃ)。

思い出話を披露したい。

私が哲学者として、動くゲイとレズビアンの会 Occurに関与していた頃のことである。当時Occurは、後に『ゲイ・スタディーズ』(青土社)として結実する議論を、会内で積み重ねており、それをアメリカ人の日本文学研究者・批評家のキース・ヴィンセントが主導していた。

Occurの創設者であり、実質上の代表者である新美広がその頃私に、「われわれは建前としては『戦略的本質主義』だが本音は『戦略的構成主義』だ。構成主義は、大学(アカデミズム)に受け容れられるための方便だ」と語った。当時真面目な哲学者であった私は、それを知的な不誠実と考え、会を辞めてしまった。

戦略的本質主義とは、私の記憶が間違っていなければ、レオ・ベルサーニの用語である。実際には本質主義ではないのだが、政治的理由で本質主義を偽装することをいう。例えば、sexual orientationは自由意思では変更不可能ということを強調するために、性的嗜好でも性的志向でもなく、「性的指向」という訳語を用いるなどがそれだ。すこたん企画などは今もその路線だと思う。

新美の発言は、われわれは、本質主義を偽装しているかのように振る舞っているが、実意のところは本質主義者だ、つまり同性愛は生まれつき決まっているもので変更不可能だと思っている、という意味である。

私はそれに憤ったが、しかし、哲学がゲームなのだとしたら、新美のような態度も許されて然るべきなのかもしれない。よく分からない。

と、ここで筆を置く。