あかねから帰る

電車内で近代文学のことを考えていた。「勿論人生とは崩壊の過程である」と書いたフィッツジェラルドドゥルーズにより著名になったが、日本近代にも、芥川龍之介(『或阿呆の一生』)、太宰治(『人間失格』)、三島由紀夫(『豊穣の海』)、島田雅彦(『天国が降ってくる』)と自滅=自己解体の歩みを続けた作家達がいた。ということを考えたのは、今日のジャズを楽しむ夜で掛けるアート・テイタムバド・パウエルビル・エヴァンスのうち後者2人は、近代芸術(家)の抱える不幸そのものを体現しているような存在だと思い、それは文学では、アメリカでいえばフィッツジェラルドやケルアック、日本でいえば芥川や太宰の苦悩に相当するのではないか、と思ったのだ。

ついでにいえば、吉本隆明椎名誠のことを「自殺を禁じられた太宰治」と批評したことがあったが、同様に島田雅彦は「自殺を禁じられた三島由紀夫」だと思う。私の想像では恐らく彼は死にたかったのではないかと思うが、自殺の時機を逸してしまった。島田雅彦の失敗作に『ロココ町』があるが、これなど陳腐なまでの生存主義的語りで自殺の想念を退けている。『天国が降ってくる』で島田雅彦は主人公を死なせることで、自殺という悪霊を祓い除けたのだと思う。『夢使い』以降の島田作品は、基本的には生の一途な肯定なのではないか、ということを考えた。

芥川や太宰の自殺は個人的資質に還元することのできない、近代性の本質に関係したものだと思うが、バド・パウエルが経験した生々しい崩壊(警官からの暴力、黒人差別、精神病、アルコール、麻薬……)や、ビル・エヴァンスの生きる意欲の喪失(共演者や近親者の相次ぐ死による)なども同じだと思う。生の崩壊に接することで、一種異様なまでの美が生まれるというのも似ている。

ビル・エヴァンスの退廃的なまでの美しさは、ショーペンハウアー的(涅槃志向)だとも思った。では、ジャズの世界にニーチェ永遠回帰、生の肯定)はいるのか? と自問せざるを得ない。チック・コリアが「永遠回帰」というバンドをやっているのは、何かの冗談かと思うが、ハービー・ハンコックキース・ジャレットチック・コリアの三人組のいずれかがジャズにおけるニーチェだなどとも全く思えない。アルバート・アイラー? 或いはもしかしたら……。

ここで一旦送る。