32歳不安定音楽家 希望は、ベーシック・インカム/攝津正(売れないオカマ)

私は千葉県の船橋市で、音楽稼業=家業をやっている、売れないオカマ(32歳、生物学的性別は男性)である。自分が「天才」なのではないかという予感はとうに過ぎ去った。退屈な日常を、凡庸な人としてだらだら生きるだけの日々を送っている。が、「何か」を求めている。そのために生の総体が輝くような、一つの奇蹟を求めている。私の期待は無駄に終わるのだろうか。「何か」は遂に私には訪れぬまま、生涯を終えることになるのだろうか。──私は待っている。希望のなかで? 絶望のなかで? それは分からない。ただひたすら、或る醒めた、そして冴えた感覚がある。自分の生なんてこんなものさ、というシニカルな気持ちと、過剰で予測不可能な出来事の到来を信じる気持ちとの狭間で、揺れ動いている。私にとって大事なのは、唯一の現実世界、「生活世界」と呼ばれるもの、言い換えれば共可能なもろもろの特異性が収束・収斂するただ一つの世界ではない。絶対無限の多数性、複数性が保証された「カオスモス」、もろもろの特異性の絶対的且つ全面的な発散なのだ。ニーチェに倣って、それを永遠回帰と言い換えてもいいだろう。その肯定のために、今日も私は生きる。運命愛! ただ一つのものを肯定するとともに、絶対的な多数性、複数性、潜勢力を肯定すること…*1。(582字)

*1:ライプニッツにとってこの世界が唯一の最善世界なのは、可能な限り多数の可能な本質が共可能になり実現するから。フッサールはウアドクサ=根源的臆見として「世界定立」を挙げる。この世界に生きているということ、それがあらゆる「知」の前提だと彼は考えた。これらの思想家らに反して、スピノザ-ニーチェ-ドゥルーズにおいては無限に多数多様な諸世界が共存可能。潜勢力という位置にある、現実化されないもろもろの世界が「カオスモス」として複雑に絡まり合っている。それを一挙に肯定することが「意味の生産」であり、「差異の反復」。これは佐藤澪のジン<世界>に寄稿した文章。