プレカリアート運動の現状と課題/攝津正(PAFF)

※ フリーターユニオン福岡の機関紙に掲載予定

運動圏では「プレカリアート」という言葉は、昨年の「自由と生存のメーデー06」から自覚的に用いられてきたと言える。そのような用語を採用した背景としては、フリーターを含むがより広い概念が求められていたこと(例えば零細自営や年齢が35歳以上など行政定義の「フリーター」から零れ落ちる層をも表象する必要がある)、企業が作った言葉ではなく──「フリーター」はリクルートが作った言葉だったし、「ニート」はイギリス起源の概念をあたかも由々しき「問題」であるかの如くに語る政策屋が輸入したものだった──、自らを自己表象し自己定義する言葉が求められていたことなどが挙げられる。「プレカリアート」という横文字が分からない(何故日本語で語らないのか)と不服を述べる人々には、私は、日本には10年前から固有の運動があったじゃないですか、「だめ連」という運動が、と答えることにしている。「プレカリアート=だめ」ではないにせよ、だめ連は、「正規=典型的」な生き方を選択しない人々の自己表象と相互扶助の重要な運動であった。だめ連はわれわれの先駆者であり、われわれはだめ連の経験から多くを学ぶべきなのである。一例を挙げると、だめ連なりあかね界隈は、「精神病」者や野宿者らとの関わりで何度か危機に陥ってきたが、それは例えば全国「精神病」者集団や「もやい」など専門機関と連携して取り組むべき課題である。

プレカリアートが問題にされるのは、われわれは程度の差こそあれ、皆「貧しい」のだという共通認識が獲得されたからである。フリーター、フリーランス、アーティスト、農民、自営業…そのいずれの立場も経済不況の影響を蒙っている。正社員にしても、労働強化とリストラの脅威に怯えて暮らしているのが現実だ。われわれが経験しているこの貧困は、かつての貧困とは異質であることに注意する必要がある。例えばパソコンや携帯電話など、技術的で文化的な環境は向上しているし、即餓死というような事例も少ないだろうが、だからといってわれわれが「贅沢病」だとか、貧困でないということは言えないのである。われわれが経験しているのは、一度高度資本主義を実現したいわゆる「先進諸国」における新たな貧困であり、社会的排除なのだ。そこでは福祉国家の理念の破綻が語られ、かつてのフォーディズム型の体制の維持の不可能が説かれる。いわゆるネオリベラリズムが前景化した状況をわれわれは目の当たりにしているのだ。それはかつてのサッチャーレーガン・中曽根政権以来あったものだとしても、われわれの生活自体が質的に変容しつつあることが肌で感じられるようになったのは近年のことである。

無産者、貧民、不安定な生を強いられた人達の自立=自律運動がもろもろ立ち上げられ、「労働運動バブル」といった観を呈するまでに至っているが、しかしうかうかと喜んでばかりもいられない。実質的な何かを獲得せずに、バブルがバブルのまま終わってしまう危機もあるからだ。われわれは、労働なり生存なりという現場で、既存の制度、例えば労働者保護法制や生活保護制度などは最大限活用しつつ、そしてその切り崩しに断固反対しつつ、新たな何かも模索せねばならない。その「何か」として今盛んに議論されているのが、山森亮らが提案している「ベーシック・インカム」(基本所得)である。それは、基本的には、一切の生の選別を許さず、全ての市民に生活に必要なお金を給付すべきだというラディカルな主張である。

ベーシック・インカムが、われわれが直面している問題の「解」であるかのように語られる傾向は、確かにいささか軽薄だとしても、根拠がないわけではない。先ず、われわれが直面しているのが、旧来の抑圧なり搾取でなく、「社会的排除」(酒井隆史『自由論』)だという現実がある。われわれの問題は、権力者なり資本家なりがその生を無用、無価値であり、廃棄しても構わないものだと看做している一定の層の人々がいかにしてサバイバルするか、といったものだ。だからこそ、一切の生の選別に反対するベーシック・インカムの発想が重要なのだ。つまり、われわれの生に価値があるかないか、それはおまえら(権力者、資本家)が決めることではなく、われわれ自身が自己決定=自己価値化すべきことだ、というのがわれわれの第一の主張なのである。生の無条件肯定(一切の選別に反対する)の理念こそ第一に来るべきものであり、「生きることは善い」という思想から出発して政治を思考し実践すべきなのだ。その観点からすれば、完全なベーシック・インカムの施行という極大理念を無限遠点に先送りして、それをただ待ち望むといった受動的な仕方でなく、例えば生活保護を稼動年齢層にまで拡大適用すべきだとか、障害年金を弾力的・柔軟に運用すべきだとかいう現実的な議論なり運動が可能である。われわれの運動は政治-経済-文化的である。それはあらゆる生を無条件肯定し、差別・選別・遺棄を許さないという意味で政治的であり、「生きさせろ(生きることを可能にする経済的条件を与えよ)」という意味で経済的であり、各人の特異な潜勢力の十全な表現を求めるという点で文化的である。われわれは「生きる」ことを望んでいる。が、奴隷のような生を望んではいない。桎梏から解放された者として、自己表象-自己決定-自己価値化する者として生きたいと願っているのだ。われわれの運動は、だから生の全般的解放を求めるものである。それはかつてフェリックス・ガタリが与えたコミュニズムの定義に従えば、ありとあらゆる特異性の肯定である。われわれは〈共〉(common ネグリ=ハートの用語)を求めるが、この〈共〉は「みんな同じ、同質」ということを意味するものではない。むしろ差異、多様性、発散する特異性の全面肯定なのであり、その意味で生きることの肯定なのである。この肯定は、闘争である。何故ならば、特定の層の人々は死んでも構わない、文化的生活が送れなくても構わない、と考える権力者や資本家がいるからである。彼・彼女らとの緊張関係なり政治的闘争抜きには、プレカリアートの運動はあり得ない。だからわれわれの運動は階級闘争なのであり、21世紀の歴史創出的運動なのである。