こころ系の時代を生き延びる 全国「精神病」者集団の闘い

1974年東京において催された「第1回全国精神障害者交流集会」の場で全国「精神病」者集団は結成された。その際の決議は、「保安処分新設反対、精神外科を禁止せよ、電気ショック療法に対する患者の拒否権を与えよ、自由入院を拡大せよ、今日の精神衛生法体制に反対する、優生保護法に見られる精神障害者差別に反対する、通信・面会の自由権を承認せよ」等であった。

今からみれば考えられないことだが、かつては「精神外科」手術、つまりロボトミーが精神病への治療としてかなり広汎に実施されていた。有名なところでいえば、詩人アレン・ギンズバーグの母親もロボトミー手術を受けている。また、ベイトソンの著書にも、ロボトミーを受けさせられる患者が示した最後の抵抗(ユーモア)が記されている。全国「精神病」者集団で精力的に活動している山本眞理が長野英子名義で出した『精神医療』(現代書館)にもロボトミーを受けさせられる患者の最後の訴えが生々しく描写されている。

ロボトミーほど野蛮ではないにせよ、現在でも電気ショック(電気痙攣)療法は難治性のうつ病などに対して実施されている。現在では全身麻酔の上施術するのが常識となっているが、かつては無麻酔であり、且つ懲罰的に用いられる場合があった。電気療法の是非については現在でも論争が続いている。例えば、先日破産した精神障害者の親の会ぜんかれんが出している通信に、神田橋條治が電気療法に肯定的な発言をしたのに対し、ばびっち佐野が抗議し、謝罪・訂正文が掲載されるという出来事があった。(神田橋條治の新刊は、抗議文も収録しているとのことである。)電気療法が全身麻酔の上で行われるならば、少なくとも苦痛はないにせよ、記憶障害が残るケースが多々あるというのもまた事実である。電気療法の是非に関して、当事者や専門家を含めた討論が行われることが望ましい。

全国「精神病」者集団は、犯罪を犯した当事者の救援や、予防拘禁=まだ犯罪を犯していないのに再犯の惧れがあるからとの理由で拘禁することへの反対・抗議活動を主に行っている。そして当事者団体であり、精神病者神経症者、人格障害等とレッテルを貼られたことがある人や自分で自分を病者だと自認する人で組織が構成されている。代表は置かず、メンバーの民主的な討論で意思決定を行っている。

精神病、神経症人格障害(この範疇には問題があるが)と診断されて精神科の治療を受ける人の数は1990年代以降、激増している。それは精神科への偏見が弱まった、敷居が低くなったという肯定的な変化からもきているだろうが、社会そのものの構造的変化も大きく作用していると思われる。自ら命を絶った有名な精神病者には南条あや山田花子二階堂奥歯などがいるが、こうした人達、特に南条あやは、かつてのサブカルチャーエートスの中で自己形成し、結果的に死を選んだといえる。それは彼女の遺した日記などを読むとよく分かる。

或る人は、かつてのサブカルチャーのブームが残したのは、結局は膨大な数のメンヘラー(精神科に通院している人を指す、2ちゃんねる由来と言われている表現)だったと述べている。サブカルチャーと或る特定の人間類型の生成の相関関係については慎重に見定めなければならないが、服薬への抵抗感が減り、何か悩み事があれば抗不安剤抗うつ剤を飲めばいいといった或る意味プラグマティックな態度が主流になってきているというのはいえると思う。そんな中で、薬物の副作用も考慮し、十全な自己決定をもって薬物と付き合わねばならないというのは当然のことだろう。肯定的な意見もあれば否定的な意見もあるが、薬物と自殺との相関関係も報じられたことがある。それが実証されるかどうかは別にして、薬と自分の心身との相性をよく吟味しつつ医者なり薬と付き合うというのは絶対に必要なことであろう。

精神科の薬も日々進化し、かつてのような副作用が強かったり依存度の強い薬ではなくなってきていると言われるが、よく知られているように、覚醒剤とほとんど変わらないリタリンという危険な薬も出回っている。また、ハルシオンのような普通の睡眠薬であっても、健忘を起こすこともある。

適切な服薬により、症状の悪化や再発を防ぐことができる、というのは事実だろうし、自らの健康にプラスの選択をすべきであることも言うまでもないだろう。だが、精神科領域は、自らの脳なり心という最も内奥のもの、最も重要なものを巡る政治の場でもあるのだ。サバイバルのために薬を飲むとしても、薬に依存したり、薬のせいで破滅したりしないようにする必要がある。

私は暫定的に「こころ系」と呼ぶが、近年増大しつつある膨大な数の精神医療ユーザーには、精神病者なり精神障害者としてのアイデンティティがない人が多い。そして、そういう人達に無理にアイデンティティ獲得を強要することはできないであろう。このことは、木村敏も指摘した、精神病の軽症化傾向などとも関係している。かつてのような「典型的」な精神病者(例えば、人格が荒廃し一生を静かに病院で過ごすというような)は少なくなってきているのだ。だが、だからといって自立支援法のような悪法の精神を肯定するようなことは、決してあってはならない。精神障害は、かなりの部分社会環境の問題でもあるのだから、社会が責任をもってケアすべきなのは当然だ。ハンディキャップを負って生きるのは、日本社会はまだまだ厳しい社会である。そういう条件のもとで、医療としても経済的にも当事者を支援し助けるような制度が必要である。また、個々の病者自身の力=潜勢力を最大限発揮していく方向も必要であろう。つまり、それが養生(神田橋條治)ということである。養生は、ほとんどスピノザニーチェ流の倫理、「良い」「悪い」の倫理(自分の体に合ったものが良いものであり、不適合なのが悪いものである、という、良し悪しをアレルギーのモデルで考える考え)と言える。われわれは、自己の本性=自然に従って十全に力を発揮して生きるべきなのである。それは端的にいって、自己の創造性や生きる力を最大限高める、表現する、ということである。

私は、「こころ系」の時代である現代、全国「精神病」者集団のような相互扶助的で闘争的なグループの役割はますます重要になると考えている。心ないし脳の病いなり機能失調がこれだけ広汎にある以上、サバイバルのために当事者同士何を為し得るか話し合える場が必要なのは当然だ。が、例えば共謀罪法案などは、そうしたピアサポートの場すら犯罪化するものであり(例えば、ピアカウンセリングの場で、「あの医者、気に入らないな。殴ってやろうか?」と誰かが言い、別の人が「そうだ、それがいい」などと応答すると、それだけで「共謀」が成立してしまう)、絶対に許されるものではない。また、われわれは自己の生存権を勝ち取らなければならない。具体的にいえば精神障害者年金や生活保護、さらに最終的には、ベーシック・インカム基本所得)を勝ち取らねばならないのだ。経験がある人には分かってもらえるだろうが、現在の制度の下で精神障害者年金を取得するのは、実際に生活が困窮していても、かなり難しいことである。国の基準は、統合失調症を一級、躁鬱病を二級と定めている。だから、人格障害神経症では、多くの場合年金は取れないのである。が、軽症であるとしても、生活や就労に支障をきたしているという現実もあるのだ。軽症例にまで年金を出すと、国家財政が破綻するという言い方をする人がよくいるが、それは事実なのか? むしろ、軍事費など不要なものを削減し、所得税累進課税法人税率アップなどで、福祉のための財源を捻出すべきだろう。そうしたことは拒否しつつ金がない、予算が破綻する、などと言うのは結局現状追認でしかない。われわれは、そうした反動的な意見に負けずに、断固要求を貫徹する必要がある。われわれは、精神障害者である以前に、先ず人間であり、生きているのであって、生の無条件肯定こそ最初になければならないのだ。

全国「精神病」者集団のウェブサイト(私設)
http://www.geocities.jp/bshudan/

長野英子のページ
http://nagano.dee.cc/

Wikipedia内の項目「精神外科」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%B

南条あや保護室
http://www.nanjouaya.com/hogoshitsu

二階堂奥歯 八本脚の蝶
http://homepage2.nifty.com/waterways/oquba/index.html

精神医療 (FOR BEGINNERS―イラスト版オリジナル)

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