年金ではなく、ベーシック・インカム(基本所得)を!

社会保険庁の問題が取り沙汰され、連日マスメディアを賑わしている。実際、払ったはずの年金記録が消失し、しかも立証責任を国民の側に負わせる役人のやり口が、多くの市民の憤りを招いたことは当然のことだ。が、われわれはここで、福祉なり社会保障に関して自明の前提になっているモデルを批判的に捉え返す必要がある。

その自明のモデルとは、保険なり年金というシステムである。つまり、事前にリスクに関して当事者が負担金を納付し、後にそれに応じて給付を受けるという仕組みがそれだ。生活保護は別だが、障害年金や老齢年金、医療保険等は全てこの仕組みである。このような仕組みは、20世紀に完成をみた福祉国家の理想的形態といってもいい。

が、それは、もろもろの限界を露呈している。先ず、大きな政府を前提する福祉国家は財政的にもはや成り立たない、との右派(ネオリベ)からの批判がある。この場合、個々人は「自己責任」を負わされ、不安定な市場にただ投げ出される。例えばアメリカ社会などを見れば一目瞭然だが、金持ちの守られるべき命と、貧者の棄てられるべき命が差別化されるのは全面的な市場化の必然的な帰結である、といえる。批判は右派からだけではない。ラディカルな左派からの批判もあり得る。それこそここで主題にしようとしているベーシック・インカム基本所得)だ。

ベーシック・インカムを主張する論者は、福祉国家体制が不可避的に採用する「選別の政治」を批判する。福祉国家は、保護されるべき者らを特定する際、彼・彼女らをスティグマ化し、差別に晒す。また、憲法生存権の規定などからも貰って当然である生活保護に関しても、貰っている人は申し訳ないという感情を抱かされるし、またケアワーカーらも、受給者の生活を監視する。そんな窮屈な世の中を変えようではないか、というのがベーシック・インカムの基本的な主張である。

つまり、ベーシック・インカムという理念によれば、あらゆる市民は無条件で生きるためのお金を国家から給付されるべきである。ベーシック・インカム基本所得)を徴づけるのはこの無差別性・平等性である。例えば、障害年金であれば、その人が本当に生活に支障をきたしている障害者であるのか否かといった審査があり、生活保護に関しても、ミーンズ・テストと呼ばれるもろもろの審査がある。資産があったり、親兄弟など頼る人がいるならば受給させないというのが行政の方針なのである。しかし、そんな審査に掛けるコストがあるならば、それを全員に分配したほうがいいのではないか。誰が「本当に困窮した人」であるかテストするより(それはしばしば苦痛と屈辱を伴う)、全ての人に生活できるだけのお金を渡したほうがいいのではないか。

しかし、すぐにこう反論する人がいるだろう。ただでさえ危機的な状況にある日本の財政は、そのような高負担には堪えられず、破綻するだろう、と。しかし、本当だろうか。われわれが例えば軍事費などに掛けている法外なお金を回せばいいのではないだろうか。また、適正な所得税法人税の課税も必要だ。要するに、真の「勝ち組」=セレブには彼・彼女らの分け前を少し減らして貰い、それを困窮者に回すということだ。つまり、所得の再配分を行うということだ。

ベーシック・インカムに関しては、思想誌『VOL』の最新号が特集を組んでおり、山森亮が精力的に各地でワークショップを催している。私も山森を通じてベーシック・インカムを知った者の一人だ。生きることそのものが政治的闘争の課題である今日、ベーシック・インカムは最先端の思考である。私は皆さんに、『VOL』を購読し、ベーシック・インカムへの理解を深めることを勧めたい。