空想

散歩しながら、インドやタイには去勢した男の子が沢山いるのだろうか、日本にはいないのだろうか、などと空想する。インドにはヒジュラがいるよね。タイではトランスセクシュアルや性転換は盛んだけど、去勢のみっていうのはあまりないだろうね。日本だったら、去勢するくらいだったら性転換するんじゃないだろうか(つまり造膣手術もする、っていうこと)。去勢だけする人はあまりいそうにない。陰茎癌などだったら別だろうけれど。昔2ちゃんで見たけど、確か陰茎癌での去勢の最年少記録は14歳とのことだった。

SMプレイの一環というか極限として、去勢というのもあるんだろうか。アメリカのBMEなんかはそれだよね。でもそれだと、少年というような年齢じゃなく、もっと年がいった大人がやることだよね。昔よくサイトを見てたけど、BMEってのもよく分からないよねぇ。自分で自分の手を切断しちゃった「no hand」氏とか、不思議な人が一杯いた。

私の嗜好は何だろうか? やっぱS、サディズムなのかな? 子どもの頃から、残酷な場面に萌えるんだけど…。

同性愛なら理解されるし、受け容れられる。が、少年愛になると微妙。さらに、去勢した男の子がいいとか、男の子を去勢したいなどと言ったら大多数の人はドン引きでしょう。私自身、自分の欲望なり衝動がよく分からない。だから子どもの頃や思春期には、自分が将来犯罪者になるのではないかと怖かった。実際、次々に少年を襲って去勢するという事件がかつて起こっている(以前このブログでも紹介した、「杉並連続少年通り魔事件」http://kangaeru.s59.xrea.com/Jack.htm)。私は、自分がそういう犯罪を犯すのではないかと恐れていたのだ。だが、もう三十路も超えて、そういう惧れはほとんどないと思う。以前ほど暴力なり残酷に惹かれなくなっているし、他者を他者の同意なしに傷つけたいともそれほど思わない。バイオレンス小説の読み手が、日常においても暴力的な人であるとは限らないように、私自身も日常においては暴力的・加害的ではない。アブナい人であるという事実に変わりはないだろうが、犯罪を犯したり、人を殺したりすることは多分ないだろうと思う。子どもの頃の愛読書は、平井和正大藪春彦だったが、それを同級生に話すと、「なんでこんな残虐な本が好きなの?」と驚かれた。

ちなみにそのような私のサディズムは「物心ついた時からずっと」続いている。

野獣死すべし (光文社文庫―伊達邦彦全集)

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とか、

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地獄変 マジカルホラーシリーズ5 (マジカルホラー (5))

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とか、

恐怖地獄少女 (コミック傑作選)

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今思い出したのだが、子どもの頃、ホラー映画や怪奇漫画、バイオレンス小説の大ファンだった。ゾンビが出てくるのが特に好きだった。悪魔崇拝ものとか、おかしな博士が出てくるものとか…。とても怖い映画が幾つもあったのだが、題名を失念してしまった。断片的なイメージだけ覚えている。

大藪春彦の小説で、主人公が敵の男を拷問し、ペニスを先端から根っこまで千切りにして嬲り殺す場面があったが、私は特にそういう場面が好きだった。また、「ローソク病」でペニスを切断した人が出てきたりした。平井和正の小説では、主人公が捕まり、ペニスを三枚におろされたりする。そういう場面も好きだった。小学校低学年の子どもが、ですよ。理解できますか? 私自身、意味が分からないんですけど。

子どもの頃の私を思い出してみる。私は、独りきりでひたすら空想に耽るのが好きな子どもだった。常にいつも、人を拷問したり殺したりするイメージを想像したり、非常に激しい暴力描写のある小説などを読んだりしていた。そういう嗜好に関して、誰か他人と意思疎通したりできることは全くなかったし、今でもまるでない。

大人になった私は、子どもの私を理解できない。何故、幼い私は、人が殺されたり拷問される場面ばかり好んでいたのだろうか。どうして殺戮や暴力、破壊が好きだったのだろうか。基本的に、今の私には、かつての自分の嗜好というか、本性が、全く理解できない。勿論、同じ人間である。同じ衝動なり幻想なり欲望を抱いている。が、かつての孤独な私、空想にのみ生を見出していた私は、理解ができないのだ。こういう思いを抱いている人は、他にもいるのだろうか?

今思い出したのだが、私は幼稚園児の頃、幼稚園の女の先生に鋏で切り付け、顔面に怪我を負わせるという事件を起こしている。動機というか、どうしてそんなことをしたのかは全く覚えていないのだが、赤い血の色を生々しく覚えている。そして、大学に入った年、オウムの事件が起きたのだが、どういうわけか私は「サリンばら撒きにも賛成」であった。もし殺してもいいよと言われたら、私は幾らでも、嬉々として殺戮を続けるだろう。私は、そういう自分の残虐さ、凶暴さ、暴力性、破壊衝動が怖いのである。

そこからすると、私の不安神経症の成り立ちも簡単に理解できるように思う。私は、私の破壊衝動を理解しかねているのである。自分で自分の衝動が抑え難いからこそ、他者を傷つけてしまったのでは、と不安になる、というからくりだ。もし私が、自分の破壊衝動なり殺戮の欲望なりを幾らでも好きに満たして構わない環境に置かれたら、全く病気ではなくなってしまうだろう。が、しかし、そのような「健康」は望ましいことではあるまい。私は、健康であるよりも、病んでいるほうがいいのである。少なくとも、文明というものに適応するためには、健康な人殺しであるよりも、病んだ常識人であるほうがいいのだ。それは根本的な矛盾だが、生涯抱えていかねばならないもののように思う。

とか、

のラストに性器切断の場面が出てくる。

私が覚えている映画は、幼い兄弟が魔界?を旅して悪魔達をやっつけるが、その後この世界に戻ってきた後、悪魔に報復されるというもの。兄弟は成長して、仲違いするが、兄が交通事故死する。そして、弟は、鏡の中にいる悪魔に、「こっちに来い」と、鏡の中の世界に引きずりこまれてしまう。それがラストシーン。

別の映画は、ゾンビものだが、大きな洋館が舞台。博士が、不死になる方法を発明し、自らゾンビになっている。そこに迷い込んだ一家が、一人また一人と殺されていく。両親が殺され、最後に幼い子どもが残る。

八月の光 (新潮文庫)

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このラストでも黒人が民衆のリンチに遭って去勢され、血がどくどく流れる。