つらつら考えてみる

最近、ジャズ、特にジャズ・ピアノの歴史を考える時間が長い。私の暫定的な意見としては、ジャズとは、「20世紀アメリカの商業音楽」だととりあえず言ってみる、ということだ。つまり、20世紀でもなく、アメリカでもなく、商業音楽でもないものは、ジャズではないか、或いはジャズだとしても何か問題提起的・壊乱的な何か、或いは批評的な何かだということだ。

ジャズとは、終焉した(或いは終焉しつつある)「20世紀的なもの」の典型なのだ。ジャズとはロマン主義であり、モダニズムである。要するに近代そのものなのだ。

ジャズ・ピアノの歴史を把握しようとすれば、私の意見では、以下の人達を理解すればいい。アート・テイタムセロニアス・モンクバド・パウエルビル・エヴァンスハービー・ハンコック。彼らはいずれも特異であり、それぞれの表現の平面において最高のものを生み出している。だから、彼らのうち誰がより上手いかという話をすることには意味がない。純粋に技術的にだけいえば、アート・テイタムがジャズ・ピアノを完成させたといえるが、しかし、テイタムとパウエルは別の平面に属しているのである。

ところで、「20世紀アメリカの商業音楽」という定義?からは多くが零れ落ちる。例えばフリー系の人達は、ほとんど食えていないから、「商業音楽」かどうかは疑問ということになる。また、日本(やアメリカ以外の諸国)のジャズメンはどうなるのか、ということも当然疑問だろう。だが、「アメリカ」という規定は重要だ。それは第二次世界大戦後、アメリカが全世界的に覇権したからであり、アメリカの経験が他で模倣・反復されてきたからだ。

簡単にいえば、ジャズの表現においては、失われた(実はありもしない)「起源」としての民族性なりが想像的に回復され、虚構されるということがそもそもの初めからあった(デューク・エリントンのジャングル・スタイルなど)。1957年に頂点を極めるジャズの歴史が、黒人(アフロ・アメリカン)のアイデンティティ確立と相即的だといわれるが、それは皮肉なことだ。起源としての「アフリカ」は想像的であり、ジャズの諸規則はヨーロッパ起源の近代音楽のそれを簡素化したものなのだから。「日本」という民族性を自覚し始めた、60年代のフリーのジャズメンらにも同じことがいえる。彼らが見出した「日本」なる民族性は想像的なもの、虚構されたものだ。例えば彼らがフリーの無秩序の中から童謡の旋律に立ち返る時、「日本の」ミュージシャンとしてのアイデンティティが表現されていたのだと言えば言えようが、しかしそれは本当に、「本質的」なアイデンティティであったのか。むしろ、デューク・エリントンが脳内で「アフリカ」を妄想したように妄想された「日本的なるもの」ではなかったか。

もう一度言えば、──「20世紀アメリカの商業音楽」。この規定の全てが、今問題化されている。例えば菊地成孔が「ポストモダン」ジャズを僭称する時、そこで問われているのは、20世紀でもなく、アメリカでもない場所で「ジャズ」をやることの意味そのものである。それは本当に問題的だ。矢野沙織上原ひろみらの演奏を聴く限りでは、その点に関する自意識なり批評性が見出せないように思うのだが、前世紀にアメリカで開花した音楽を、21世紀の日本でやることの意味を問い直す必要があるように思う。