死者との交換

すなひでさん
パレードの混乱・紛糾の後で自殺された方がいたという話は、僕はNAMに参加していた時に南定四郎さんからうかがいました。そのこと自体は不幸なことだと思うし、あってはならないことだと思います。が、自らはもう語りえない他者(死者)を政治的に利用して、誰か(ここではひっぴい♪♪さん)を暗黙に非難するようなやり口は良くない、と思います。

運動の中で精神的に不安定を抱えた人が自殺してしまう、ということは結構あることで、僕も何度か経験し、非常に残念で慙愧に堪えない思いをしています。どんな思想であれ、命と引き換えにする価値はないはずだと思うからです。言い換えれば、生きることの肯定から始まらずに、社会運動を創っていくことはできないのではないか、と思います。

しかし、死者をどう表象し語るか、といったことはそれ自体「政治的」なことです。死者はもう語りかけてはこないとしても、その他者とわれわれは何らかの関係を結んでいるからです。僕は、死者を政治的に利用しないような仕方で、公正に運動を創っていくこと自体が、運動の過程で亡くなった方への最大の供養であると思います。

もう少し説明すれば、第3回パレードの紛糾が起きた時、僕はOCCUR(動くゲイとレズビアンの会)にいて、或る意味当事者ではない第三者的な立場から対立する双方の言説を分析する作業を担当していました。当時は「どっちもどっち」的な立場でしたが、今はひっぴい♪♪さんの主張を基本的に支持しています。そのうえで、基本的に世代の差異?に関わる不幸な行き違いがあったのではないかと推測しています。

僕が会った時、南さんは運動、そこからくる紛争に疲れ、憔悴し、運動から身を引いた「引退者」の立場を表明していました。そしてかつて彼があれほど強調した「ゲイ・アイデンティティ」を否定し、文化的?な性風俗研究に主要な関心を向けていました。そうした南さんなどと接したり、紛争当時のことをうかがったりしながら、運動というもの、そして複数の人間が関わっている場では不可避的に生じる紛争というものを考えずにはいられませんでした。

纏まりがありませんが、一旦ここで送ります。