H先生への手紙

明日は通院日。そこで病状を把握し、先生に伝えるために、文章を書くことにした。

改憲阻止のために日々東奔西走し、ほとんど不眠不休で(というのは大袈裟か)、「まさに超絶」な活動を続けている。国会・議員・政党を回り、護憲を訴えている。今日も、社会民主党福島みずほ党首の部屋を訪れ、秘書さんと30分程お話しした。

私はごく「普通」の左翼・社会主義者である。とはいえ、今のご時世、社会主義者そのものが珍種になってしまったので、その意味では例外だといえるかもしれない。私は社会的弱者や少数者(精神病者クィア等)が少しでも生き易い社会にしていきたいし、革命を信じている。現代日本で、革命などは不可能と思われているが、それは革命の概念が古いのであって、非暴力的な手段で革命は可能であると考える。世界中を見渡しても、政治的なオルタナティブへの想像力が日本ほど貧困なところは他にない。南米やキューバパレスチナでさえ、解放=逃走へ向けた想像力が生き生きと機能している。草の根の民衆が創造的に活動している。政治的絶望が支配的であり、オルタナティブがないことが前提で議論がなされるような地域は、日本くらいなものなのだ。私は、オルタナティブがない、という思い込みそのものが錯覚だと思う。微細なレベルで、また巨視的なレベルで、幾らでも創造/想像や漏出の契機はあるのであって、それを見えないようにしている社会的な障害があるだけなのだ。私は、あらゆる悲観主義者に反対だ。闘争は、あるところにはあるし、そこで革命は幾らでも可能なのである。マスメディアに洗脳・幼稚化された主観性だけが、「出口なし」を嘆いてみせる。だが、エコロジーを取っても、マイノリティ運動を取っても、プレカリアートの運動を取っても、幾らでも漏出の余地はある。闘争の余地はある。というか、漏出は必然的であり不可避である。それは私達が意識的に制御出来るものではないのだ。革命とはこの上なく豊穣な無意識的生産であり、無意識そのものの生産である。

つい饒舌になってしまったが、今日本社会の総体を覆っている冷めた絶望感、シニシズムのようなものに私は全面的に反対なのだ。シニカルな態度を取ることが、賢いことだとか、得なことだとかいう思い込みと対決したい。現代日本の支配的な主観性を問い直したい。

私は性的リビドーは貧困で涸れ果てているが、政治的リビドーや芸術的リビドーは超活発である。資本主義的な賃労働に関しては全くやる気がないし、かつてもなかったし、これからもまるでないだろうが、協働的な労働・自由活動や、政治的な闘争や、芸術的な遊戯に関しては、「元気全開」であり、「まさに超絶」である。私は毎日、凄まじい量の音楽を聴き、本を読み、人に会い、オンライン・オフラインで交流している。それは基本的には愉しい、充実した時間である。私は愉しい生それ自体が革命だと思っている。生を愉しむこと自体が、政治権力や企業から自律した営みそのものなのだ。DIYとは、よく知らないので適当に言っているのだが、そういうことだと思う。

そうは言っても、私にも悩みや苦しみはある。例えば、「営業活動」がなかなかうまくいかず、音楽の営みが金銭になかなか結びつかないこと。船橋西武からライブをキャンセルされたり、某カフェからデモテープを無視されたり、芸音でファンキー・シーズのライブをやっても一人も客がこなかったり、JR津田沼駅前で津軽三味線のライブをやっても投げ銭をくれる人が一人もいなかったりすると、さすがに少し凹む。だが、私は音楽を金銭のために、言い換えれば儲けるためにやっているのではない。音楽はそれ自体が快楽であり、追求すべき価値なのだ。私は「自称音楽家」だけれども、それは音楽で喰えているという意味ではなく、音楽を生きる糧にしているという意味なのだ。今日もマイルスを聴き、生きる喜びに満ち溢れていた。マイルスのトランペットの響きが素敵で、それに酔い痴れた。

他に気になることといえば、「性的な悪夢」が続いていることだろうか。睡眠時間が短く断続的なものになるとともに、明晰な意味不明の悪夢を頻繁に見るようになった。それらの多くは露骨に性に関わるものだ。性欲が無いなどと言いつつ、欲求不満なのだろうか? 女性に興味が無いなどと言いつつ、実は欲望の対象として見ているのだろうか? 自分でも、自分の性のことは良く分からない。私は、性的には、Questioning(模索中)である。若い頃には、性というのは大きなテーマだったけれども、今では音楽や政治のほうが価値があり、大事なことで、性という事象は厄介な、面倒臭いものと感じられている。他者と性的に交わるということ自体がおぞましいというか、ぞっとするというか…。性に抱いている嫌悪が、裏返しのかたちで夢では露骨な渇望として表現されているのだろうか。それは分からないが、性という問題が、自分の中で未解決なのは分かる。

それと、電車の中などで突然、親が死んだらどうしよう、自分も生きていられない、などと激しい不安に駆られることがよくある。帰宅してみると親は元気であり、杞憂なのだが、そういう心配が頭を離れない。この強迫観念は何だろう? 公式的に分析するならば、私は無意識的には親の死を望んでいるということになるかもしれないが、しかしそうは思えない。親には長生きしてもらいたいし、大切にしたいと思っている。私は政治的には過激だが、生活に関しては保守的で穏健である。家族を大事にしたい、小さな幸せを大切にしたい、という気持ちが強くある。それは家族に「再テリトリー化」し、閉じていくということなのかもしれない。ケルアックがそうだったように、徐々に反動化していく過程にあるということなのかもしれない。だが、本当はそんなことには少しもリアリティがない。私にとっては政治的なラディカリズムと生活面での保守主義は少しも矛盾や葛藤の対象ではない。家族の中で政治の話もよくするし、私の政治活動にも一定の理解を得られていると思っている。

ちょっと長くなったが、私としてはケルアックの「自然発生的散文」やヘンリー・ミラーの文章を理想にしている。ケルアックやミラーのように書ければ、とはいつも思う。日本でいえば安吾や中上ということになるのかもしれないが、「自然」の絶対的な無限性・豊饒性・生産性を表現する言葉に強く惹かれる。彼らは政治的には微妙な位置にいるが、革命志向の社会主義者であっても、内在的な生を絶対的に肯定していく過程は必要なのではないかと思う。

最後に言えば、私の今の状態は、苦悩よりも情熱が勝っている状態だと思う。だが、緊張がぷっつりとぎれたり、突然死にたくなったりする可能性がないとはいえない。不安定な状態ではある。少し安定させる必要は感じている。