変態と憲法

私は、誇り高い変態である。変態というのは、「典型的」な男女の枠に収まらず、男も女も男でも女でもない人も愛し、普通・正規の生き方をしない、という意味で言った。多様な生き方、特異な生き方を擁護・自己主張し、政治的に表現し続け、差異をラディカルに肯定する者、それが変態である。

変態する生/性は超越的な法の枠組みには収まらない。法を書き換えるとしても、そこからはみだすモノがある。定義しようとしてもしきれないのが変態である。絶えざる逸脱と移動と生成変化こそが変態だ。変態とは生/性の陽気な肯定、自己満足なのだ。

電車の中で、性のことを考えた。実際のところは、私にとってリアルな性行為の意味は日々ますます薄れてきている。性交する相手もいなければ機会もないし、自慰すらせず、性的快感よりも音楽の喜びのほうに価値を見出している。では、私は、変態であることを止めたのか? そうは思わない。人に出会い、人に惹かれるということは頻繁にある。電車の中で考えていたのは、ベルサーニも『フロイト的身体』で言及していた嗅覚のことだ。科学的にはどうなるのか分からないが、フェロモンというか、性欲を刺激する臭い、体臭のようなものは確かに存在するようだ。中学生の頃から最近に至るまで、私は、ルックスは勿論重要ではあるのだが、相手の臭いに恋することが頻繁にあった。その人自身を有無を言わさず指し示す、いわば署名のような体臭というのがあるものだ。その人の雰囲気や優しさと一体になった体臭というものが。それは有機的?な臭いでありながら決して不快ではなく、私に性という事象があることを想起させてくれる。性という可能性は、私にとっては解放のイメージと結びついている。リアルな性交が重要なのではない。新たな関係性や優しさを発明することが重要なのだ。新たなかたちの共同体や家族を創出することが必要なのだ。

私はほとんど性交/成功しない。特に異性--女性のように見える人--とは10年以上性交していない。しかし、性的存在であることを止めたわけでもない。私は出会いに期待し、関係の発展や急変を望み、片思いに心を痛め、しかし友情に癒される、といった日々を送っている。私にとって重要なのは、多数多様な男女/男でも女でもない人らとの「友情」=非性交的関係性である。私には多くの知り合いや友達がいる。それらの人々全てが重要だ。私にとっては大切な仲間であり、同志であり、友人だ。その人達のお陰で私は生き延びることが出来ているのだ。私には、性より政治のほうが大事なのだ、と言えるかもしれない。欲望や快楽を放棄するつもりはないが、私にとって大事なのはスローでランダムな出会いの歓びだ。人と話すことや人を見つめることも私にとっては大切な行為なのだ。そうして人と交わることのほうが、リアルな性交よりも大事なことだ。私は全く禁欲的ではなく、むしろ蕩尽するほうだが、性交の実現よりも期待やわくわくする感じの持続を望む。それは島田雅彦的な青二才の処世術かもしれない。

今日は、こんなことを考えていた。

個人レッスンの生徒さんが二人いらして、芸音でカラオケのレッスンをする。私はピアノを弾き、生徒さんが歌う。それが結構長引いた。用事があって、コジマデンキとパルコに行くと、もう国会・永田町に寄る時間はなくなっていた。まっすぐ高田馬場に向かい、斎藤貴男さんの講演「マスメディアが産み出した安倍新政権の危険性」を聴いた。状況認識や問題意識はかなり共通したものを感じた。今、日本社会が変質している。保守的になり、階層化が進み、セキュリティを口実にした監視社会化や戦争が出来る国づくりが推し進められている。そうしたことに声を大にして反対していかなければならない、という思いを強く抱いた。

明日も仕事があるので、時間的に厳しいかもしれないが、もし可能なら国会・永田町に向かい、多数多様な人達と交流・対話し、平和な社会を実現すること、戦争に反対することを訴えていきたい、と思った。