タブーを問う

オーマイニュースの皇室報道の姿勢に対し、例えばそれが全く不必要な敬語表現を用いていることなどについて、ネット上でも幾らか議論になっているようだが、私も不満を感じた。それを整理して展開してみたい。

1)現代日本社会のタブー
「自由」で「民主的」と称される(何しろ長い間「自由民主」党が政権党なのだ)この日本社会にも、厳然たるタブーが幾つかある。その代表が、天皇制と「拉致」問題だ。それをあからさまに、公然と批判する声は多くの場合、封殺される。『政治少年死す』の発表を契機とした大江健三郎への脅迫や『風流夢譚』事件などから窺えるように、天皇制を公然と批判する者には有形無形の暴力が振るわれる。

現代の天皇制は、日本国憲法にも明記してある通り、「象徴」天皇制である。「象徴」天皇とはどういう意味か。天皇は或る種の記号、但し特殊な記号──内容空疎で、政治的権力は持たないとされているにも関わらず、日本「国民」の統合を意味するとされ、人々の感情=心を支配する装置であるという意味で──である、ということである。天皇は記号であると言うことには、何ら批評性はない。天皇は記号であると言ったところで、それが機能し続けている現実を変革することにはならないからだ。天皇は敗戦後、「人間宣言」したが、それは特殊な記号であるという自らの特権性を自己批判的に放棄したという意味ではない。神が人となって現れるという神話を否定しただけで、「日本」や日本「国民」の統一性を意味する特権的な存在であるという位置を棄ててはいない。

「象徴」天皇は、公的な政治的権力は持たない、とされる。しかし、日本「国民」のナショナリティの「象徴」という特権的な位置に留まり続けることを通じて、隠微に、人々の感情=心=内面を支配する装置であるという性格は変わらない。昭和天皇裕仁A級戦犯靖国合祀に反発し、合祀以降靖国参拝を取りやめたことに触れ、「それが私の心だ」と語ったとされることが話題になり、政治的論点にもなったが、裕仁の「それが私の『心』だ」という言葉は、人々の「心」にこそ焦点を合わせ感情的・情緒的に同一化を促し自発的に国家権力に服従するようにさせるという、天皇制の機能を言い当てる皮肉な言葉だった。裕仁こそ、戦争責任・戦後責任を取ることから逃げ続け、帝国主義日本のアジア侵略の最高責任があったにも関わらず、戦争責任の問題は「文学」の問題だなどと言って開き直り──つまり「心」の問題だというわけだ、首相小泉が自らの靖国参拝についてそう言って開き直ったように!──、裁かれぬまま生を終えた人物である。

日本の憲法は、それを文字通り素直に読むならば、立憲君主制である。「象徴」天皇という曖昧な記号が、戦争責任を取らぬまま浮遊・君臨し、日本「国民」と称される人々を感情的・精神的に統合している、と言われる国である。そのような現代日本の現実を批判的に捉えるとは、天皇制を「解釈」したりいろいろに意味づけたりすることではなく、端的に天皇制の廃止を訴えることであるほかない。王、君主は要らない、と明確な言葉で主張することが必要だ。日本は後進的なので、秩序を保つためには天皇制のような制度が必要なのだ、とか、天皇制は日本固有の貴重な「文化」なのだ、といった意見もあるが、私はそれらの意見を支持しない。天皇という記号を抹消し、棄て去っても、日本に住まう人々──国籍を持つ狭義の日本「国民」に限らない──は、日々の暮らしを継続できるし、自己統治的且つ民主的に社会を構築することもできるだろう。端的にいえば、多数多様な複数の人々の、相互の平等を基盤とする民主主義こそ必要なのだ。

ついでに言っておけば、「女系天皇」を容認することがリベラルな姿勢の徴しであるかのような欺瞞は、止めるべきだろう。男系か女系かということではなく、もっと根本的に、天皇制そのものの是非を問うべきなのだ。喩えていえば、女系天皇を容認するのはジェンダー的な観点から素晴らしいなどと語ることは、女性も兵士として対等に軍隊に参加しているイスラエルは素晴らしい、などと語ることと同様欺瞞的なのだ。問題は、軍隊や戦争、占領、権力関係といった現実を批判的に変革することにあるのであって、それは男であれ女であれ、或いは男でも女でもない人であれ、関わりなく問われることなのである。

「象徴」天皇は、端的に言って、全く不要な存在である。にも関わらず、「象徴」天皇制という制度が存続しているのは、感情=心=内面をこそ支配するという、ナショナリズムの根本的機能をその記号が担っているからだ。右翼やナショナリストファシスト達は、「日本」という意味を「天皇」という記号によって指し示し、そしてそれに自らを同一化し、且つ(そのような感情的な倒錯を望まない)他者達にも自らと同じように振る舞うように──要するに、服従するように──強制する。そのような強迫的=脅迫的な身振りは、かれらの不安の裏返しの表現である。かれらは自らのアイデンティティとしての「日本(人)」が批判的・分析的に解体されるのが怖いのだ。その不安から逃れるために、かれらは「天皇」という記号に帰依する(且つ、かれらと同じように振る舞うことを望むとは限らない他者達にも、自らと同じように振る舞う=服従することを時に隠微に、特にあからさまに強制する)。

このような権力構造に加担しているのは、一部のファナティックな(確信犯的な)右翼やナショナリストファシストだけではない。広汎に存在している中途半端に右寄りな人々──かれらは感情=心=内面のレベルで情緒的に「象徴」天皇という記号に安心感を覚え、その記号の存続を意志している──がこの権力構造を支えているのだ。この頽廃を断ち切るには、端的に天皇制を廃止すべきことを、明確な言葉で訴えていくほかないはずだ。吉本隆明のように「大衆の動向」に追随して翼賛化すべきではないし、柄谷行人のように大衆から遊離した知識人の特権的な位置に自己満足すべきでもなく、現存社会に対する公的な批判を、社会的に提起していく必要があるだろう。言い換えれば、社会総体に内在する論理や知性に訴え掛け続けていくべきだろう。

2)主語の問題、実名原則の問題
オーマイニュースは「市民メディア」を自称している。そして、「市民記者」には実名で、個人として発言することを要求している。しかし、今回の出産問題を巡る馬鹿騒ぎに加担した一連の文章において、署名は「OhmyNews」となっており、どの個人が書いたのか、実名で明らかにされてはいない。

私は批判精神を失う時、そのメディアの生命は涸れると考える。今回皇室報道で、オーマイニュース、それも一般の市民記者ではなくその編集部という公的な機関が、全く不必要な敬語付きの報道姿勢を示したことは、それ自体として批判されるべきだが、さらに深刻な問題なのは、この件での責任者が誰なのか──記事を書いた者の実名──が明らかにされていないことだ。天皇制を批判する個人が実名でリスクを負うべきだというなら、心を支配する装置としての天皇制を支持する集団的な同調化に加担している記事を書いた者も、個人として実名で責任を負うべきである。天皇制に反対する者が実名で危険に身を晒すべきだというなら、天皇制を事実上支持し容認している者らも実名で責任を負うべきことは、当然ではないだろうか。

倫理は個人にしかない、とすれば、全ての言説を原則的に個人の実名の署名付きにすべきである、と私は主張する。そうでなければ、公正とは言えない。現存社会を批判する者にはリスクがあるが、現存社会を支持する者らにはリスクも責任もないことになるからだ。