夢は大きく

1,000冊の本を読み、1,000人の人と会い、1,000本の原稿を書くこと。目指せ、月産1,000枚!

大学院での手痛い挫折が今なおトラウマになり、劣等コンプレックスの一因となっていると感じる。私は、ベルナール・シュミット、ジルベール・シモンドン、レイモン・リュイエ等々のドゥルーズ関連の必読文献を集めたが、語学力が不足で、読み通せなかったのだ。結果、大学院での競争に敗れ、大学の外で、草の根的に勉強するしかなくなった。

外国語という要因は大きくて、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語はそもそも歯が立たなかったし、英語、フランス語に関しても、大分忘れてきている。外国語ができないと情報の幅が狭くなるし、悪訳の良書などを読み解く術がなくなるので、まずい。

哲学者として生きていくということを望む場合、現在ではどのような生き方が可能だろうか、と考えてみる。1)先ず、大学に所属して生きるという生き方がある。2)在野で、ジャーナリストのようなあり方で生きるという途がある。18世紀フランスの啓蒙哲学者から、今世紀のサルトルフーコーらにいたるまで、哲学者がジャーナリズムの機能を担うことは多くあった。大学の閉域に収まりきらない活発な思考は、外を目指して、直接に人々に語り掛けるのだ。3)孤独な「私的思想家」としての生=実存、例えばニーチェキルケゴールといった人達のような生=実存もある。

簡単にいえば、哲学者や精神分析家であるとは、「思考」を商品、いや「消費財」として提供する、ということを意味する。現実的にいえば、言葉を編んでそれを売る、ということだ。誰でも言葉は喋るのだから、私達が売ろうとする言葉には、何らかの付加価値があるのでなければならない。それが何か、というのが問題だ。1)新しい情報を含んでいる、という場合。2)新しい情報はないが、明晰に整理されているなど、「編集」が見事な場合。3)思考の爪跡が記されている場合。などなどが考えられる。

考えてみたのだが、哲学者・精神分析家として生きていこうといっても、実際には難しい。1ヶ月に5,000円支払ってくれるクライアントが20人いて、月収10万円である。しかもそれだと、ほとんど毎日面接をしなければならない計算になる。大変な重労働だ。簡単に金銭を稼ぐ方法はないと知っていても、気が重くなる。

半農半Xという言葉が流行っているが、半哲学半Xとかいうような生き方も模索できるのではないか。生きるための最低限の仕事と、自分のやりたい仕事を両方やる。兼業農家みたいな、兼業哲学者。