雑感

アート・テイタム」を聴きながら

■高校時代の友人でマイミクの人が日記で嫌韓の「ネット右翼」の主張をしていて驚いた。思えば自分も彼も、高校時代は「ノンポリ」だったものだ。歳月は流れ、彼は右翼になり、私は左翼?になる。どこかしら淋しいものを感じるが、致し方のないことかもしれない。

■多くの薬を飲んで眠った今日は、起きて少し「晴朗」な気分だった。昨日は久しぶりに入浴も出来たし、銭湯の夢を見た。とはいえ起き上がってから何もすることがなかった。

■自分は神経症というより「境界例」だという気持ちで、図書館で関連の本を予約し、今日一冊取りに行く。ぱらぱらめくってみたが、集中力が無く、頭に入らない。

■頭に入らないといえば、酒井隆史『暴力の哲学』も読もうと努力しているが、頭に入ってこない。脳力が衰えているのだろうか。全般的に「生命エネルギー」が衰えているという印象だ。『青年期境界例』や神田橋條治の著書も読もうとして読み進められず。ガタリ『三つのエコロジー』も疎遠に感じた。

■論理的にみて、芸術的にも哲学的にも性的にも政治的にも、私の生には「生きる価値」が無い、と感じる。そこから生じる慢性的な空虚感・抑鬱が現在の「主訴」だ。思えば長い間苦しんできたのだった。大学の学部や院生時代も苦しかった。卒業して職がなかった時期も苦しかった。NAMを始めてからも、「いつの日にか大きな破局が来るのでは」という予感に苦しめられていた。NAMの崩壊以後は、冷戦終結後の共産主義者に近い内的崩壊を生きてきた。そのために自分が生きているのだという左翼的「大義」を失った状態、新自由主義段階にある資本主義が跋扈・謳歌しているのをどうすることもできないという無力感に苛まれる状態だ。

■生きる価値がなくても、「死の力」「死ぬ勇気」が不足しているので死ぬことが出来ない。自殺未遂どころか自傷さえしたことがないのは、斉藤環も言うような「自己愛」の強さ故だろう。自己愛故に死を思い、自己愛故に死ぬことが出来ない、という葛藤を、ひきこもり青年と同様に、生きている。というか、現在の私は、事実上ひきこもりに近い状態ではないか。

■「死ぬ勇気」などないという人もいるが、私はそうは思わない。

■自分は実質的に「労働」も「学習」も免除されているのだから、せめて療養しなければ、と思った。明日の診察がどうなるかとても不安な気持ちだ。

■友人は「ゴー宣」「朝生」の影響を受けていた。メディアの悪影響を憎む。

■フリーター時代も辛かった。毎日四時間の軽い労働なのに、それすらこなすのがきつかったし、将来の展望がなかった。日々が余りにも速く過ぎていった。上司はネオリベ民主党支持の右翼、皇室崇敬、モラロジー推進派だった。

■家族に庇護されて単に「生存」しているだけの現状の生というのは、余りにも「無意味」なのではないか、と感じる。無意味な存在─「JUNK」の自立運動というテーマを掲げてみたものの、まるでうまくいっていないのが現状である。

■両親より先には死ねない、という気持ちが私を生へと繋ぎ留めている。

■今日は「比較的楽」ではあるが、日々の主観的苦痛には耐え難いものを感じている。「苦しみの現象学」─肩・胸の鈍痛、頭痛。終焉・空虚感。無価値・無意味だという気持ち。自分の人生は「失敗作」であり、自分の生は親の「付属物」だという気持ち。パニック発作。不安。

■これまでの苦しみについて。「無理」をしている、というのが苦しみの主な原因だった。院生時代、これくらいはやらないとと思って原書を買い込んだが、読み通すことは出来なかった。せめてここまではという義務感と、実際の自分の能力のギャップが、苦しみの一因だと思う。NAMを続けていた間も、NAMの理念─資本と国家の揚棄─は「誇大妄想」だと感じつつ、他方で卑小な実践─Qを広げる─を続けていた。就職活動をしている間も、「正社員」で働けるわけがないと一方で思いながら、他方で月20万円が必要だと追い込まれ・焦りに駆られていた。今は、フリースペースをやると言いながら、実際には無理というところで行き詰まっている。

■「ましてひきこもっている人が自殺を思うのは、何よりも自己愛ゆえなのです。自分の理想がかなえられなかった、だから生きていても仕方がないということになるわけです。自己愛が健全であるがゆえに死を思い、しかし自己愛ゆえに行動に至ることができないというジレンマに陥っています。」斉藤環『ひきこもり救出マニュアル』p353

■私の場合、リストカットオーバードーズといった形で「行動化(アクティング・アウト)」することはなく、専ら言葉や思考によって「象徴的に」自分を傷付ける、また他者─主に親─を巻き込むという形を取っている。痛いのが怖い、厭だということもあるが、「言葉」や「思考」を通じた自己破壊がほとんど嗜癖になっているところがある。私はほとんど毎日それを繰り返している。こういうのを「地獄」というのではなかろうかと思いながら、他方では「甘え」「贅沢病」だとも感じている。