転機
思い返せばテロリストは誰?九条の会の読書会で
- 作者: 酒井隆史
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2001/06/01
- メディア: 単行本
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以下、NAM系のML宛ての投稿。
●あかね水曜連続ワークショップ
面白いイベントが目白押しです。是非、多数の方のご参加をお願いいたします。
来週は野宿者支援運動のじれんのワークショップ、5/3の憲法記念日は、辻さんも『スロー快楽主義宣言!』で言及しているという『ラダック 懐かしい未来』のワークショップ、以後もいろいろと興味深いイベントが続きます。
5/17(水)のすがさんのワークショップも面白そうですが、個人的には本格派のマルクス研究者を招いた5/31(水)の企画に期待しています。マルクス自身のアソシエーション概念とは何かが伺えるわけで、滅多にない機会だと思いますので、多数の方のご参加をお願いいたします。
メールをやりとりするうちに自覚したのですが、1)アソシエーション論的左翼(NAMが勿論そうだが、NAMだけではない)の可能性と限界、2)マルチチュード論的左翼(すがさんの提唱するJUNKも含まれる)の可能性と限界といった2つのテーマに興味がある、ということに気付きました。マルクスを実際に長年研究してきている方と語る機会はそうないと思うので、勉強して臨みたいと思っています。
アソシエーション論的左翼とマルチチュード論的左翼は、非代議的民主主義を称揚するといった共通点もありますが、相違も多いです。前者が「陣地戦」にシフトするのに対し、後者は「陣地戦」の不可能性(蜂起)を語ります。前者が古典的な労働力商品=プロレタリアートに狙いを定め、それを革命の主体とするのに対し、後者では、ポストフォーディズムにおいて労働の形態と条件が大きく変容したことを与件としています。
NAMの原理は高度にブルジョア化した社会で革命はいかにして可能か、と問うていたわけですが、フーコーやドゥルーズ=ガタリもその問いを発していなかったわけではなかったわけです。フーコーにおいては「抵抗」、ドゥルーズ=ガタリにおいては「分子革命」がその答えでした。いずれも、「自己」や「生成」、「集団的主観性」といったものと結びついた、「ミクロ政治」に着目する立場でした。それに対し、NAMの原理は、資本と国家の揚棄という「大きな物語」(大文字の政治)を語ったわけです。マルチチュード論においては、「生政治」というかたちで、ミクロ政治が回帰してきています。その意義と限界は何か。
そうした長年考えてきたこともこの機会にはっきりとさせていきたいと思っています。