shikuさんへの応答

http://d.hatena.ne.jp/shiku/20060320/

中国で日本語・日本文学を教えているshikuさんの難しい問い掛けへの応答。フーコードゥルーズは難しい。ネグリ=ハート、酒井隆史渋谷望らはフーコードゥルーズに言及するが、しかしその例外的、欄外的な概念において参照するのであって(フーコーにおける「生政治」「生権力」、ドゥルーズにおける「管理社会」)、その主著をまるごと検討したものではないように思う。フーコードゥルーズ(そしてドゥルーズ=ガタリ)の最も難解な、最も謎めいた部分は、そのまま残ってしまうように感じている。フランス現代思想は、お遊びでもなければ、過去の遺物でもなく、今後数十年の月日を掛けて習得されねばならない何かだと思う。ジジェクヘゲモニーは、(特に後期)ラカンの言説が公開されてさえいないこと(そして日本語における『エクリ』の翻訳が、全く「読めない」ものであること)に拠っている、と思う。この悪い時代、悪い場所において生きる私達は、物事を単純化して済ませてしまいそうになるが、そうしてはいけないのだと、学び知る努力を止めてはいけないのだと強く思う。

引用が『シネマ』からではと推測したのは、「非合理的な切断」という映画用語が使われていたからです。shikuさんのお示しになった『フーコー』の該当箇所を見てみましたが、「フーコーは、奇妙にも、現代の映画に非常に近い。」と述べられています。そしてp108以下で、確かにカントとの比較がなされていますね。直観と悟性の二元性とそれを超えるものとしての想像力(構想力)の図式について言及されています。フーコーのカント主義について、柄谷さんもどこかで言及していたように記憶しています。

しかし、カントの『純理』の場合、「可能な経験」が生じてくる過程を超越論的に追うという仕掛けのため、直観と概念、ドゥルーズの用語では「可視性」と「言表」とは宥和的な関係にあるように思います。(想像力の「図式」に媒介されて、例えば、私が机を見る、というような経験が可能になります。)ところが、フーコー及びドゥルーズにおいては、かれらが「可視性」と呼ぶものと「言表」と呼ぶものは切り離され、「無関係」なものとなります。ドゥルーズ流の「現実の経験」の発生を追う「超越論的経験論」ですが、それは見られることしかできないもの、言われることしかできないものに関わっています。(『差異と反復』第3章「思考のイマージュ」)

p136以下では第3のものが「思考」と名指されますが、それはカントにおけるように宥和的で媒介的なものとは様相を異にしているようです。「思考することは、可視的なものと言表可能なものとを統一する美しい内面性に依存するのではない。思考は、間隙を穿ち、内面を圧し解体する一つの外の侵入によって実現されるのである。」(p137)

可視性と言表は、『言葉と物』でアイロニカルに対比されますが、それ以前に、『レーモン・ルーセル』などの初期段階から既に、言われることしかできないものの呈示としてあったと思います。

ドゥルーズは言います(p170以下)。「そして、この点で(註──外を時間よりももっと深い、終極的な空間性と考えるが、最後の著作において時間を外におき、襞という条件において、時間としての外を考える可能性を再び与えているという点で)必然的に、フーコーハイデッガーと対立することになる。「襞」はフーコーの著作につきまとい続けたが、最後の探究でその正確な次元を発見するのだ。それはハイデッガーとどんな類似、どんな差異をもつのだろうか。フーコーが、「通俗的な」意味での現象学、つまり志向性と断絶したことを出発点としてはじめて、これは評価できることだ。意識が物に狙いを定め、世界内で自分を意味するようになること、それはフーコーが拒絶することである。実際、志向性はあらゆる心理主義とあらゆる自然主義を克服するためにうちたてられた。しかし、志向性は新たな心理主義と新たな自然主義を発明してしまい、メルロ=ポンティ自らが言ったように、「学習」(learning)とほとんど区別できないようなものになる。それは、意識の総合と意味作用からなる心理主義、また「無垢の体験」と物、物を世界内に存在させること、などからなる自然主義を再構築するのだ。ここから、フーコーの二重の異議申し立てが発する。確かに、語や文にとどまっているかぎり、私たちは志向性を信じることができる。志向性によって、意識は物に狙いを定め、自分自身を(有意味な意識として)意味することができるというわけだ。物や物の状態に止まっているかぎり、私たちは無垢の体験を信じることができる。このような体験が、意識を通じて、物を〈存在させる〉というわけだ。しかし、現象学が唱える「判断中止」は、言表にむかって語と文を超え、可視性にむかって物と物の状態を超えていくことを、現象学自身にうながすべきだったろう。ところで、言表は何も狙い定めはしない。なぜなら、それは何らかの物に関わることはないし、一つの主体を表現することもなく、固有の自足した対象と主体を、内的な変数としてもたらすのだ。そして可視性は、すでに始源的な(前述的な)意識に対して開かれた無垢の世界に展開されるのではなく、ただ光に、光‐存在に関わり、これが可視性に、独特の仕方で内在的であり、どんな志向的まなざしからも自由な、形態、均整、遠近法をもたらすのである。言語も、光も、それらをたがいに関係させる様々な傾向(指示作用、意味作用、言語の意味性、物理的環境、感覚的な、あるいは理解可能な世界)において考えるのではなく、それぞれを自足的で、他方から独立した、還元不可能な次元において考えなくてはならない。光の「そこにある」と言語の「そこにある」において考えなければならないのだ。どんな志向性も、二つのモナドのあいだの淵で、あるいは見ることと話すこととのあいだの「無関係」においては崩壊してしまう。これはフーコーにおける重要な転換である。つまり、現象学を認識論に転換したことだ。なぜなら、見ることと話すことは、知ることであるが、私たちは話すことを見ないし、見ることについて話すのではない。そしてパイプを見ながら、私たちは(いくつかの仕方で)「これはパイプではない」と言い続けることだろう。あたかも志向性は、それ自身を否定し、それ自身崩壊してしまうかのようだ。すべては知である。そして、これが無垢な体験が存在しない理由である。つまり、知の以前、知の下には何もないのである。しかし、知は還元不可能な仕方で二重であり、話すことと見ること、言語と光である。だからこそ志向性は存在しないのである。」

なお「自己の自己による情動」という用語が『フーコー』では頻出しますが、原文を確かめたわけではないのですが、これはカントの「自己触発」(内官の形式である時間に関わる)の意味ではないか、と思います。自己触発は、根源的な遅延性といった主題にも関わるテーマです。