鎌田哲哉HOWS講座〜のじれん〜クアトロガトスと死の欲動

【「「デイリー・コメンタリー」に寄稿しているような岡崎一派の人達」→「「デイリー・コメンタリー」に寄稿しているような人達」と修正。該当する方々にお詫びします。】

鎌田哲哉さんのHOWS講座に行く。レポートを大学の卒業式で講座に出られないただもの先生に依頼されていたが、自分にその力量があるはずもなく、断念。

私としては、暴力や血責論を巡る主題と、『戦艦大和ノ最期』の白淵(臼淵?)大尉についての議論が印象に残った。

http://www.juryoku.org/osirase4.html#kamatetsu2

http://www.fastwave.gr.jp/diarysrv/realitas/200312c.html#20031222

日本国民(「北」の市民)として在日朝鮮人(半難民)に対して如何に戦争責任・戦後責任を取っていくか、という大きなテーマがあるはずだし、そこでいろいろと取り組まなければならないのは確かなのだが(例えば私の両親は、朝鮮人に対して、物凄い差別主義者である。そうした身近な現実を変えることが出来ずして、大局的な社会を変革することなど出来ようはずもないと思える)、私としてはQ-NAM問題においてNAM会員としてQ会員に対して倫理的責任を果たし得たかという問いのほうが気懸りである。そもそも最初に白淵大尉についての樋口陽一の文章を引用した際の動機が、穂積一平宮地剛による「その後の意見」公開に際しての応答というつもりだったからだ。しかし、白淵大尉に自己同一化するのは、徐京植鎌田哲哉さんの論理からすれば、自己愛的なものということになるのだろうか。そうだとすれば、どうすればいい? NAM内の反NAM的な抵抗者たちと具体的に連帯する途を選べばよかったのか? (NAM的な、余りにNAM的な「大人」たちとズルズルベッタリの関係を続けるのではなしに。──私は「Q-NAM問題」のようなものを書くとともに、蛭田さん、飛弾さん、柳原さん、田中さん、大和田さんといったかつてのNAMの中核に居た人達ともなあなあの関係を続けている。そこに自己欺瞞や頽廃はないか?)

講座終了後、映画『出草之歌』の試写を観る。

http://headhunters.ddo.jp/

あのオトナさんに、モアヌさんも参加している批評誌『クアトロガトス』を頂く。これについては後述。

http://www.cuatro-gatos.com/

http://absoluteweb.jp/

交流会に参加するが、いつの間にか指定の時間が来ていて、慌てて本郷三丁目を出る。渋谷に向かい、のじれんの人達に会う。9時を少し過ぎてしまう。しかも、道に迷う。コンビニで牛乳を買って、店員に道を訊き、宮下公園へ。児童公園というのが見つからず、のじれんの連絡担当の方とも電話が繋がらず、彷徨っていたが、宮下公園を突き進むうち、「それらしい」(と、何故私が直感的に特定できたのかはよく分からない)方々と出会い、「お疲れ様です」と向こうから声を掛けられたので、「のじれんの方ですか」と問い掛けると、やはりそうだとのお返事で、彼らに合流。児童公園に一緒に向かう。

http://www.jca.apc.org/nojukusha/nojiren/

http://www.geocities.jp/nojirenjp/

あかねでのワークショップについて話し合うが、前向きに考えていただけるとのことで、来た甲斐があったと感じた。とはいえ、彼ら「本物の」活動家と、贋物に過ぎない私とでは、本質的な差異があるのは確かなことだ。私は自分の境遇に居直り、楽をしているだけだ。野宿生活や難民化といった真の苦境に立ち向かっているわけでは全くない。私の感じる苦悩や苦痛に深みはなく、意味もない。端的に日々の感覚が不快であり苦痛であるというだけだ。それが私の生なのだ。

何処へ行っても(自分の家に居てさえも)「居場所もなかった」というのが私の本来的な経験だ。私は何処にも馴染めない、居つくことのできない(あかねにさえも)人間なのだ。私はコミュニティを求めつつ、それを得ることがどうしても出来ない。ヘンタイのアソシエーションを、と言いつつ、自分自身がヘンタイすることは出来ないでいる。硬直し、緊張し、こわばった身体が私の身体性だ。他者との開かれた対話やコミュニケーションなど全く出来ないのだ。

帰りの電車で、あのオトナさんからいただいた『クアトロガトス』を読むが、読み進むうちに狂暴な殺意というか、自己嫌悪というか、自己破壊の衝動というか、何と言っていいかよく分からないのだが、物凄くネガティブな衝動を自分の内に感じた。この批評誌に書いている、お高くとまったお偉いさんたちに嫌がらせをするためだけに自殺したいような気持ちだ。激しい悪意を自分の中に感じる。でもこのように直球で書くことが出来るような悪意など、大した悪意ではないのだろう。とにかく、家に居ても、外出しても、死にたい気持ちが全開で、イタイ存在を全世界に曝している。批評誌を読んで、こんな「文化」に対して自爆攻撃を仕掛けたい気分だが、同時に、岡崎乾二郎や「デイリー・コメンタリー」に寄稿しているような人達なら『クアトロガトス』にどう反応するだろうか、ということも気になる。岡崎乾二郎に正真正銘の「芸術」「文化」を措定し、非文化的ないし反文化的存在としてそこから距離を置こうとする私の立場は、スノビズムだろうか。何処かに聖域を確保しつつ(それをかばいつつ)、自分自身は無意味な自己犠牲や自己破壊に耽るといった頽廃を示しているだろうか。自分自身のことは分からないが、出来るだけ自己欺瞞や頽廃を少なくしていきたいと思った。

文章が荒いが、深夜で、疲れているので、ここで一旦アップすることにする。