鴨川〜Tree's cafe 有機的なものと非有機的なもの:「死の経験」 及び「スローラブ」


木曜日朝8時に自宅を出発し、千葉の鴨川にマイミクの田中正治さん・阿部文子さんを訪ねる。電車内で読書会の課題図書レーニン帝国主義』等を読み、着いたのは午後12時過ぎ。バス停まで田中さんが迎えにいらしてくださり、田中さんの御宅へ。田中さんが引っ越してから訪問するのは、初めてのこと。以前鴨川を訪ねたのはもう、5年ほども前のこと(NAMが立ち上げられてすぐの頃、山田いく子さんや山田さんの友達と鴨川を訪ねた)、その時は当時田中さんが勤めておられた鴨川自然王国などを訪れたのだった。

和風の昼食をご馳走になり、私のフリースペース計画をお話しする。フェアトレード団体各種から送られてきたカタログを、阿部文子さんと一緒に広げて、検討。しばらく話し合うが、眠くなってきて、昼寝を申し出、3時間ほど仮眠させていただく。私の普段の習慣からすれば、早起きだったからか、旅(と言っても大したことはないのだが)の疲れからか、ともかく睡魔に襲われ、眠り込む。

起きて、折角やってきたのだからと、田中さんにmixiの操作方法をお教えし、遊学の森トラストのコミュニティを作り、遊学の森トラスト参加者をmixiに招待する作業を行う。

夜は、夕食をいただきながら、田中さん・阿部さんのお知り合いだという大森さんご一家が出ているドキュメンタリー、「われら百姓家族」(特別編・兄弟の運命)を視聴。親父の生き方を肯定し百姓になっていこうとする次男と、父親に反発し都会で役者の夢を追おうとする三男を中心に取り上げる。三男が、自分の夢を諦める理由が分からない、という点で皆一致。

マルクスレーニン等について会話が弾む。レーニンの実践家としてのリアリスト的偉大さについての話が、一番心に残った。とはいえ、現代のこのグローバリズムの時代に、ジジェクが言うように「レーニンを繰り返す」ことなどできるのか、それが望ましいのか、否か、ということも考えてしまう。

帝国主義』の時代と現代(グローバリゼーション)と、何処が同じで、何処が異なるのか? 私はネグリ=ハートの『帝国』に挫折しているので、根本的には分からないのだが、その疑問も読書会等で取り組んでいきたいと思った。

風邪気味だからと、早めに(夜11時過ぎ)、湯たんぽをいただいた布団の中で、就寝。長い長い夢を見る。まるで高校か何かの卒業式?みたいな雰囲気で、その中で私は田中さん(NAM代表であった)にNAM再建を懇願する。高校時代の担任の姫野玲子先生、高校時代の文芸部の友人ゴンちゃん、死んだ犬であるチロちゃんが出てくる。

翌朝、10時過ぎには眼が覚めていたが、布団から起き上がる気がしなかった。前日の昼寝から目覚めた時と同様、体がだるく、「元気」がなかった。結局、11時半に田中さんから声を掛けられるまで、布団の中でぐずぐずしていた。

朝食をいただき、バス停まで送っていただいて、東京・練馬にあるTree's cafeへ。正午に出て、着いたのは5時半頃であった。

今日のテーマは「農」。阿部文子さんが参加したほか、はっぴい・れいんぼーの内田さん、新庄で農を営んでいる方、「トージバ」の代表者の方、マイミクの飛弾五郎さんや根本桂さんなどが参加。随分盛り上がるが、私は発言できないまま。

会が終わる頃、阿部さんが飛弾さんに、私のフリースペース計画について考えてくださるようお願いしてくださるが、飛弾さんとは長い付き合いだから、ごまかしは通用しない。飛弾さんは、私が会の間退屈そうにしていたことに気付いており、それを指摘した。そしてやりたいならやればいい、どうして利潤を上げなければならないと考えるのか? と問うてきた。

確かに飛弾さんも気付いているように、私は、多くの若者がそれを共有している、オーガニックなものや農への志向性を、基本的には共有していない。オーガニックなものや農といった要素は、実践上の必要性として、快楽ではなく義務的なものとして、関わっている。

誰かがドゥルーズについて指摘していたように、ドゥルーズの『フーコー』の末尾は不気味なまでに非有機的なもの、非生命的なもの、非人間的なものへの言及で終わっている。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』でも、中心的な主題は、有機的な組織化に抗う非有機的なもの、非生命、「器官なき身体」、「死の経験」(DGにおいては分裂病における強度の「旅」の経験として同定される)であった。挫折したドゥルージアンとして、私は、観念上は、今でも非有機的なもの、非生命的なもの、人間の形象を超えたもの、「器官なき身体」、「死の経験」を追い求めている。しかし、社会上の実践としては、オーガニックなものやフェアトレード有機農業等の肯定に向かわざるを得ない。ここには、自己欺瞞と分裂が確かにある。しかし、やらぬ善よりやる偽善という言葉があるように、不可能な理念より「いい加減」な実践を選ぶべきかもしれない、と思う。ガタリは『三つのエコロジー』を書いたが、ドゥルーズ=ガタリ的なエコロジストが存在し得るのか否かは、謎である。少なくとも『資本主義と精神分裂病』の水準において、エコロジーを語ることが出来るか否かは、大いに疑問である。

帰りの電車の中で、飛弾さんの言葉に打ちのめされたように感じつつ、企画案を練っていた。それは「スローラブを求めて」という、Queer性的少数者)向けの企画である(「スローラブ」という言葉自体は『スロー・イズ・ビューティフル』における辻信一さんの言葉だが、辻さんはこの言葉にQueerな含意は持たせていない)。私達(ゲイやバイ等)には、出会い系(雑誌とインターネット)やハッテンバという、「ファストな」愛と性の技術-手段が一般的になっている。しかし、偏向した、つまり何処かしら自分自身も「障がい者」であると言えるような境位において、相手(複数?)の顔や心や存在自身をゆっくり確かめ合いながら、時間を掛けて進行していく愛というものも、特にQueerにおいて、あっていいのではないのか。ファストなメディアが提供するファストな出会いと性では、少なくとも私は、不満足だし刹那的なものだと感じる。そこで、リアルな時間と空間を共有することから始まる他者との関係性を大切にした「スローラブ」に向かうのはどうか、と思った。出会い系やハッテンバの存在を否定するのではなく、それも肯定した上で、それとは違った愛/性のあり方を模索したいと思った。

ここで考えたのは幾つかの点である。まず、私達(複数の)Queersが創る場は、ひびのまことさんが強調する意味で、「オープン・ミックス・パブリック」なものでなければならない、ということ。言い換えれば、主催する私が権力者なのではあるが、その権力は常に相対化されねばならないということ。そして、「どんな変な人でも歓迎」ということ。しかし、反面、そのオープンさがアナーキーな混沌や性暴力のやり放題を肯定するものではない、ということ。場の主催者としての私の責任が常にあり、性的な暴力や嫌がらせが生じないように気を配る必要があるということ。「へなへないと」やカフェ玖伊屋をモデルにしたい。等々。

この企画を実現できるかどうか分からないが、とにかく、やりたいことをやれるだけやってみよう、と思う。死ぬのはいつでも出来る。生きている間にしか、「実験」は出来ない。

参考:
http://blog3.fc2.com/yugakunomori/ (遊学の森・HP)
http://www.nurs.or.jp/~suiden/ (新庄水田トラスト)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/net-nouen/ (ネットワーク農縁)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=705192

http://www.treescafe.com/
http://treescafe.exblog.jp/

http://homepage3.nifty.com/happyreinbou/
http://www.toziba.net/

http://barairo.net/
http://projectq.barairo.net/
http://projectq.barairo.net/modules/henahena/1998.php
http://kweeya.jp/