酒井隆史『自由論−現在性の系譜学』(青土社)&二神能基『希望のニート』(東洋経済新報社)読書感想文

攝津正

「テロリストは誰? 九条の会http://whatsa9.web.fc2.com/ での読書会の課題図書である酒井隆史『自由論−現在性の系譜学』(青土社・2,920円)のうち「序章 新しい権力地図が生まれるとき−<運動>以降」と二神能基『希望のニート』(東洋経済新報社・1,575円)の読書感想文。

私の基本的視点━━「屑正伝」━━は、 http://www.fastwave.gr.jp/diarysrv/realitas/200601c.html#20060125 で示してあるので、それをご参照いただきたい。

● 「反転された革命(revolution in reverse)」p22

現在の「反動」は、逆説的にも、「イノヴェーション」、「変革」、「新たな主体性や集団性の積極的構築」などというような「運動」の相で捉えかえす必要がある。現代は敵が運動の担い手であるという意味でも〈運動〉以降なのだ。

→では、逆説的に不動性・無能力等々の多様な「サボタージュ」(岡崎乾二郎)が抵抗の契機になるということ? しかし、それだけでは積極的で構成的な展望は開けない。

→フリーター・ニートといった集団的主観性(私はこれに厖大な「メンヘラー」の「死屍累々」(ふみあしいさみ)を加えて考察したい)が重要になってくるところか。しかし、これらは、今のままでは、資本と国家にいいように利用され、解体されるだけだ。(雇用情勢の変化、障害者自立支援法の成立…)

星川淳等が述べている、普遍的価値をコンサーヴするという意味での真正の「保守主義者」と左翼ないしエコロジストの連帯を通じた、小泉流の「改革ファシズム」(ブロガー連盟)への抵抗という戦略は可能? 現実的効果は期待できる?

→「農」というエレメントにおいて、真正の「保守主義者」と革命的勢力(左翼やエコロジスト)の連帯が可能にならないか?

→『希望のニート』でニートの若者が体現しているとされる「スロー」さ、スローライフ・スローワーク等の標語で表される運動は積極的な対抗運動たり得るか? それは単に資本主義的企業に敗北し、〈排除〉されるだけではないのか?

● 労働の拒否と一般的知性p25-

のちにテーラー主義の原理である「構想と実行の分離」へといたることになる相対的剰余価値追求のための生産過程の機械装置による合理化の過程は、労働を生産過程の中心の座から追放し周縁化する。つまり、機械あるいは固定資本と一体化した抽象的知が、労働を周縁化しつつ(「労働者は生産過程の主作用因であることをやめ生産過程と並んで現れる」)」主要な生産力となる。この過程においては労働は「生産過程のなかに内包されたものとして現れるというよりは、むしろ人間が生産過程それ自体にたいして監視者ならびに規制者として関わるようになる」。そのため、労働は価値源泉としては副次的なものとなり、それゆえ資本主義自身によって価値法則が否定されるのである(「直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間は富の尺度であることを……やめる」)。富の生産という観点からするなら、労働はもはやネグリジブルなエレメントである。それにかわって主要な生産力になるのは、生産(機械やのちには組織━━いわゆる「プロセス・イノベーション」)に応用された科学的知、固定資本に客体化された「一般的知性(intelleto generale/general intellect)」である。生産過程の主要な役割を担うのは、いまや機械という具体に入り込んだ知という現象なのである。この「一般的知性」という比喩は抽象的な知がモノのうちに「染み込む」という事態をいいあらわしているという意味でも、奇妙なテーゼである(それゆえヘーゲル的として嫌われもしたのだが)。

→ゴルツやガタリユートピア、少ない労働で過剰な享楽を得られる可能性、が示唆されている? (「サボタージュ、集団移住、組織的ストライキ、個人的なアブセンティズムなど。また過剰な賃上げ要求ですらこれにあてはまるだろう。」)しかし現実は、低賃金の厖大な非正規雇用━━パートタイマー・フリーター━━が生み出され、正規雇用が破壊されただけである。この状況をどう逆手に取ってひっくり返せるのか? Paffは「すべての非正規雇用に一人前の賃金を!」というスローガンを掲げているが、スローガンとしては正当だとしても、それを如何にして実現していくかという戦略・戦術の話になると難しくなる。

● 「分離」のポリティクス

テーラー主義が生産過程と労働過程のあいだにひとまず区別をつけ、前者のもとに後者を従属させるというかたちで労働者階級からの撤退の試みの第一歩を踏みだしたとしたら、資本はさらに歩みを進めて、生産の場からそもそも労働を〈排除(exclusion)〉してしまうというかたちで資本のリストラクチュアリングを進めていった。ある意味で、「労働からの解放」は「豊かさ」の実現という展望からふりほどかれて実現をみたのである。

ユートピアからディストピアへ。第一世界内部の第三世界化。

私たちは常態としてパート労働者なのであり潜在的にはつねに「失業者」なのである。p41

→p39-41の議論は状況分析としてよく分かるが、他方、何のスキルも獲得できないまま資本に使われるばかりの厖大なフリーター層がいる、という現実はどうなるのか。言われていることはよく分かるが、それへの対抗、そこからの出口が見えない。

価値法則からの脱出は、私たちの社会総体(使用価値)を交換価値へと変貌させてしまうという事態にいたってしまったのだ。工場は社会に分散し、社会−工場となる。ここでマルクスのいう「資本による労働過程の実質的包摂」のみならず「資本による社会の実質的包摂」「社会の国家への実質的包摂」が完成するのである。p45

ディストピア。ではどうすればいい? 柳原敏夫が引用するイリイチの三つの次元の区別を想起。だが、「生」という次元を回復し再建するのは、具体的には如何にして可能か、というと、それはきわめて難しい。

● 逃走=闘争、「自己価値化」p45-

これ(=「自己価値化」)は〈運動〉のなかで、「資本主義的生産関係や国家の管理とは相対的に自律的な社会組織や福祉の地域、コミュニティに基盤を置いた形式の実践を指して用いられたものである。」p47

→現在、これにも資本が「吸血鬼」のようにとり憑いて価値を吸い尽くそうとするのなら、それに如何に反撃していけばいいのか?

● multitudesのエクソダス

疑問符。具体的戦略が見えない。空疎な美辞麗句という印象。

ヴィルノアレントを参照にしつつそのエクソダスの戦略を明確に組み立てるよう試みている。ひとまずアレントにならいながら、二人間の活動領域を〈労働(Traveil)〉(ヴィルノはWorkとLaborを区別していない)〈活動〉〈知性〉の三つに区分される。アレントは知性を秘私的な活動とみなし、公共領域にかかわる〈活動〉や〈労働〉とは切り離したのであるが、マルクスの一般的知性論が示していたように〈知性〉と〈労働〉は密接にむすびつき、また〈知性〉は協働にとっての共有された公共の資源になる。その点を前提にヴィルノは、〈活動〉の位相を捉えかえす。先述したように、非物質的労働においては〈労働〉は生産物という最終生産物をみることのない技芸、action-de-concert、〈活動〉の性質を帯びる。それにしても、こうした技芸的性格は政治的活動の特色ではないだろうか? そこで、〈知性〉を〈労働〉から引き離し、そのはらむ〈活動〉的特質を政治の方に向けかえさなければならない。エクソダスとは、〈知性〉が〈労働〉から引き離され、〈活動〉の方に向かうべく鍛えられるプロセスなのである。p57

ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー』の「労働」/「自由活動」の二項対立を想起させるが、具体的展望が見えてこない。端的にいえばそのような「自由活動」で喰っていくことはいかにしたら可能・現実になるのか? それとも喰っていくというような生活から分離した局面で「自由活動」を捉えるのか?

これまでこうしたプロセスを開く集団性のありかたは、ホッブスがmultitudeをpeupleのただなかに引き込んでしまう「非正規の団体」として嫌悪してきたものである。「非正規な団体は、本質的には、同盟にすぎないし、あるいはときには、人びとのたんなる集まりにすぎず、なにか特定の企図のために結合しているものではなく、一方の他方への義務づけがなく、ただ、意志と性向を同じくすることからのみ生じたものである」(Hobbes 1651=1966 訳一五七頁)。ヴィルノはこうしたホッブスの議論を参照しながら、まさにこのような団体こそ、multitudesの共和制を構成するものである、という。ホッブスのいう団体、あるいはソヴィエト、評議会━━伝統的な非代表制民主制の機関。〈エクソダス〉は、そうした機関を構築することで、「徳のある協働」を賃労働から解放するのである。それは代表制民主主義のエリート主義的な擁護者が戯画化し退けるような、単純な政治形態ではない。国家の行政装置の外で、それに抗したり、ときにむすびついたりしながら、「積極的引きさがり(soustraction entreprenante)」の過程で形成された相互保障の関係性や「友情による作品」を守っていく(sauvegarde)というプロセスであり、あらかじめの形態や組織をもたない複雑な構成をもたねばならないというのである(Virno ibid.p142)。p57-58

→「multitudesの共和制」はどのようにして「構成」されるのか? 

→「評議会」とはいかなる機関で、具体的にどのように運営されるのか? なぜそれが「「徳のある協働」を賃労働から解放する」のか?

→「「積極的引きさがり(soustraction entreprenante)」の過程で形成された相互保障の関係性や「友情による作品」を守っていく(sauvegarde)というプロセスであり、あらかじめの形態や組織をもたない複雑な構成をもたねばならない」というが、そのようなプロセスは具体的にはどのようなものであり、それがもたねばならないという「複雑な構成」とはどのようなものなのか?