あかねノートにSOS

お地蔵さんの帰国記念オフ会に、数ヶ月ぶりに早稲田にある交流イベントスペース「あかね」http://akane.e-city.tv/に行ったんだけど、電車内で酒井隆史『自由論−現在性の系譜学』(青土社・2,920円)、二神能基『希望のニート』(東洋経済新報社・1,575円)を読み進むうちに希死念慮が高まってきて、やばい状態になった。

「あかね」に着くとまだお地蔵さんはいらしていなかったので、ペペさんにお水を貰って、お薬を飲む。その後、お地蔵さんがいらして、多数の利用者で「あかね」は満杯に。この人の充満状態に参ってしまい、二回目の服薬。

帰宅する電車の中で、『自由論』は序章だけしか読めなかったけれど、『希望のニート』は読了することができた。それにしても、最近、仕事中にも希死念慮が高まって、困っている。私の感じている、どうしようもない空虚感や絶望感は、他者に伝え難いものだと感じている。そこから、死を解放として捉える感じ方が出てくるのだが、喩え甘えと批判されようと、私は私の感じ方に忠実であるほかないので、死のみが私に唯一残された「エクソダス」なのだという気持をどうすることもできない。

私は浅田彰が言っていたように、単に礼節の問題から母親が死ぬ前に死ぬことは出来ないと思っているに過ぎないし、生きている間は生きて努力する人間を助力したいと思っているに過ぎない。私自身には生きる意味も喜びもまさに何一つ無いのだ。

蛭田さんが、NAMの崩壊をきっかけにして私がおかしくなったと言う人がいるがそれは間違いだ、私はもともとおかしかったのであって、NAMの経験はそれを顕在化させただけだと言っていたが、私もそう思う。私自身、大学に入った頃、大学院に入った頃から、どうしようもない人生上の問題を抱えてしまっていて、それを解決できなかった、それで壊れてしまったのだ。NAMやQは私にとって一時的に生の苦痛を和らげる麻薬に過ぎなかった。そして「麻薬」なき今、剥き出しの生の苦痛に苛まれている、というところだ。

これはもう、説明し難く大変に辛い。重病・難病の人たちから比べれば、何ということはないではないか、と言われそうだが、<主観的>には(そして私が私自身の経験に閉じ篭り閉鎖するかぎり、この<主観的>とは<絶対>という意味だが)とても苦しくて堪らない。精神的=神経的に追い詰められているばかりではなく、身体的にも胸の奥や右肩などの持続的な鈍痛や動悸・息切れに襲われる。それとともに不安や絶望感がやってくる。それは服薬でも認知療法でもどうにもならない。神沢さんは反対しているが、私は浅田彰フーコーが推奨していた安楽死施設や自殺幇助施設を待ち望まずにはいられない。私は死の苦痛が怖いのと、他人に迷惑を掛けるという理由で死に踏み切れないだけで、生に留まる理由は何一つ持ってはいない。

「あかね」ノートやこのmixiで誰かにSOSを発したところで、どうなるものでもないのは自明だが、私は本当に追い詰められていると感じる。Help me!