敢えてヘンタイする勇気を持て

2003年7月3日に書いた文章を再録する。

http://femmelets.hp.infoseek.co.jp/sexuality002.html

乱立する光源のただなかで━━「男女という制度」を組み替える

今こそ言う━━「私たちは倒錯者です」「敢えてヘンタイする勇気を持て」

日比野真さんの自己紹介のページをみると、「ノンパス系MtXトランスジェンダー」という表現がある。一週間に渉るワークショップのなかで私が最も驚いたのは、この考え方、生き方である。具体的にいえば、日比野さんの容姿や身振り、発声などがそれであって、性別の特定不可能性を、単に思い浮かべたり口にするだけでなく、絢爛たるイメージとして眼前に現出させてくれたのだ。

「あなたもトランスジェンダーになれる--もし望むのなら」という日比野さんの標語は、カントの標語「Aude sapere 知る勇気を持て、知る大胆さを持て」を思い起こさせる。「標語とは、それによってひとびとが自分たちを認めさせる弁別的なしるしであると同時に、ひとびとが自分たちに課し、また他人たちに示す指令でもある」(フーコー)。いずれの場合も、問われるのはそうあることを「望む」かどうかという「意欲」にほかならない。そしてそう「望む」こともできれば、望まないこともできる。選択、倫理の問題である。それは、生物学的な、或いは社会学的なあらゆる決定論の破棄である。

また「MtX」という規定がパス(識別)という概念を組み替えてしまっている逆説も注目に値する。ほぼ全面的に「男女という制度」が浸透し切ったこの社会において、男(女)であると他者から判断されてきた者が、力関係のゲームでちょっとした勝利を収めて、女(男)として通用する━━他者から自らの望む性で判断される━━かどうかという状況を想定するとき、パス/ノンパスという符丁には意味があるだろう。しかし「X」として━━もはや男でも女でもない、或いは「男女という制度」からズレていく存在として「パス」するとは、まさに、「男女という制度」を問題化すること以外のものではない。

この「X」は浮遊し問い掛けてやまない何ものかであり、「男女という制度」を組み替える営みそのものを指す、動詞的なあり方である。「X」が、敢えていえば「ヘンタイ」が伝播するとき、一時的にであれ「男女という制度」が機能停止し、多様な性/生のあり方が露わになる。もちろんその機能停止は、永続的なものでも決定的なものでもないだろう。しかし不定の時と場所で誰か匿名の人によって担われる無数の出来事の共鳴が、気付かぬうちに世界を変えていくのではないだろうか。スーザン・ソンタグがいっているように、

大事なことは、政治的抵抗の行程では原因と結果の関係は複雑に入り組み、からみあっているということを覚えておくことです。どんな闘いも、どんな抵抗も、具体的でなければなりません。そしてどんな闘いも地球規模で共鳴します。闘いは、ここでなければあそこで行われ、今でなければ間もなく行われるでしょう。それはここであっても、どこであっても行われるのです。

注意する必要がある。組み替える「X」への定位は、理念的にのみならず、もろもろの物質的諸条件においてもある。言うまでもなく、身体があり、さらに衣裳、化粧、胸パッチなどのもろもろの道具、薬物等々によって「演出」された身振りこそが「X」なのであり、夢想世界のなかでの気分的な超出が「X」なのではない。しかしそれならば、「X」はどこにあるのだろうか。確かに、どこにでもあるわけではない。増殖や伝播、模倣の可能性が開かれているとしても、いまだ少数者である。しかしスピノザがいうように、「とにかくすぐれたものは、すべて希有であるとともに困難である。」

とはいえ、難しく考える必要もない。「あなたもトランスジェンダーになれる--もし望むのなら」。カント的啓蒙がすべての市民に開かれているのと同様に、トランスジェンダーへの道もすべての人に開かれている。各人が各人の場所で、その本性のままに、多様にトランスすればいいのである。差別化や序列づけや排除のことなどは、しばし忘れよう。とにかく、やれることからやってみよう。ビリー・クルーヴァーもいっていたように、過剰に発明され続ける技術の総体を前提とするとき「不可能なことなどない(Nothing is impossible)」のだから。

補遺━━長崎男児誘拐殺人事件に寄せて

長崎男児誘拐殺人事件は、世間では「倒錯した」といわれる性衝動、攻撃衝動に長年悩み、問い続けてきた私自身にとって、非常にショッキングな事件だった。私は先ず、人にヘンタイすることを勧めてきた自分の責任が問われるのではないか、と被害妄想に陥った。次いで、人間と呼ばれる個々に偏向した諸個体を構成する特異な諸衝動はそれ自体としては無垢で無罪である、と考えた。最後に、「恐怖とセキュリティ」━━怪物としての自己(の衝動)とその自己抑制こそが緊急の課題であるという認識に至った。

「恐怖とセキュリティ」とは、世界最大のテロ国家と化したアメリカによるイラク攻撃の只中で、RAMというアソシエーションで話し合われていたテーマである。その詳細は省くが、私はずっと、自分自身が「怪物」であり、自分自身の攻撃性から自他を守らなければならないとずっと感じていた。長崎の事件は、自己への圧倒的な畏怖を想起させた。

私は中学生の頃から、自分が犯罪者になるのではないかと恐れてきたが、衝動を抑制し内向させ、難治の神経病に移行させることで、自他に重大な危害を加えずに済んできた。それでも、世間で大きな事件が起こるたびに、十四歳の時に起きた心身の激変を反復し、象徴的な仕方で自他を傷つける。

中学生の私はこう思っていた。特殊な条件下で、特異で偏向した諸衝動を持ち合わせて生まれてきた人間には、他人の身体を切り刻むか、他人の心を切り刻むか、自分の身体を切り刻むか、自分の心を切り刻むか、そのいずれかしか生きる/死ぬ道は無いのだと。「運命」から逃れるべく、ほとんどどんなことでも試してみたが、結果は空しかった。それでも私は、生を変えることができるというガタリ的倫理(1)を今なお信じている。)

私はマスメディアの報道はほとんど見なかったが、ヴァーチャルな噂の匿名コミュニティ、2ちゃんねるで蓋然的なもろもろの情報や風評をチェックした。そのうちに、恐ろしくなった。世間の風向きがどうなるか、分かってきたからだ。

バッシングは、同性愛そのものというよりも、小児性愛ペドファイル)に向けられるだろう。「道徳的」なアクティヴィストたちは、例えば次の主張にみられるように、同性愛は医学的に正常だが小児性愛は異常である、という議論を展開するだろう(2)。

同性愛者のグループが、こうしたペドファイルの主張に警戒し、一部のゲイのグループは、子どもとの性的関係に対して最も激しい批判を行っているが、これは当然のことだろう。1990年7月にチューリッヒで開催された国際レスビアン・ゲイ青年組織世界会議(World Conference of the International Lesbian and Gay Youth Organizations - ILGYO)において、あるニューヨークのレスビアンのソーシャルワーカーが少年性愛者を厳しく批判したことをきっかけに、激しい議論がまき起こった。その結果、ホモが少年性愛者と結びつけられた場合の大衆の反発を恐れて、多くのゲイ組織は、世代境界をこえた性的行動は、主として、双方の合意に基づくものではないという理由で、自分たちとはまったく無関係なものだという公式の声明を出している。医学的にも法的にも、小児性愛が大人を対象とするホモセクシュアルとはまったく異なるものであるという事実には議論の余地がない。同性愛は今や社会的に認められた性的志向である一方、小児性愛は医学的には性的逸脱とみなされる。」(

アジアの子どもと買春

アジアの子どもと買春

、p87-8 )

私は国際的なレズビアン・ゲイのアソシエーションであるILGAが少年愛を擁護する団体NAMBLAを除名したときのことをよく覚えている。実際、NAMBLAが双方の同意に基づかない大人/子どもの不平等な性関係を暗黙のうちに容認していたという疑惑はあったにせよ、「道徳的」なレズビアンによる告発に始まった議論は、国連においてILGAが承認されるためには不面目とみなされるNAMBLAを排除しなければならないなど複雑な政治的要因が絡まりあって、結局のところ、「政治的プラグマティズム」なる論理が通り、除名が実行されたのだ。1990年代の後半だったと思うが、ILGAの或るアクティヴィストが来日したとき、私は動くゲイとレズビアンの会(OCCUR)に在籍していたので、彼の話をじっくり聞く機会があった。しかし、納得できなかった。私が動くゲイとレズビアンの会(OCCUR)を退会したのは、この一件に限らず、「政治的プラグマティズム」という論理による排除の正当化、言い替えれば「道徳」の圧迫を受け容れられなかったことが大きな原因であった。

全国「精神病」者集団やその会員の長野英子さんら多数の当事者や支援者が一貫して取り組んでいる触法「精神病」者の問題もそうだが、社会を震撼させる異様な事件が起きるたびに、社会のなかの差別が強まるばかりでなく、マイノリティの内での差別、階層化の強化、分断が起きる。「安全」「正常」なマイノリティと「異常」「危険」なマイノリティがいる、両者を区別(識別)しなければならない、というわけだ。成人男子同士の同意に基づく性行為は「医学的」にも「正常」だが、小児性愛は異常だといわれる。危険であり、監視し、治療の対象にしなければならないといわれる。

私は今こそ、去年のレズビアンゲイパレードで日比野真さんや日比野さんの周りに偶然集まった仲間たちがそのように書かれた旗を持って走り回っていたように、
「私たちは倒錯者です」
と声を大にして言いたい。私自身が発案して、その旗を振り回してパレード界隈を徘徊していたように、
「敢えてヘンタイする勇気を持て」
と言いたい。道徳家たちと戦うべきときがあるとしたら、それは今を措いてない。乱立する複数の光のただなかで、語りと身振りをもって敵と相争うべきときがあるとすれば、今しかない。

倒錯すること、ヘンタイすることは悪ではなく、無垢で讃えられるべき出来事である。それは生/性の変異/偏倚、一瞬にして退屈な日常の光景を変貌させる一撃にほかならない。悪とは他者の生/性の潜在性を奪い、傷つけ、死なせることにある。いかなる欲望、幻想にも罪はない。それがいかに残酷な強度を含むものであろうと、行為に移されないかぎり、それは〈有用なもの〉、精神のエコロジーに役立つ糧としてあるのだ。むしろ実行行為への移行を阻むために、空想すること、それを語ること、言葉にしがたい闇の部分を言葉にして他者と共有することが必要である。フェリックス・ガタリはいっている。

個人的生活であろうが集団的生活であろうが、精神的エコロジーの重要性は、専門化した《心理学》の領域から発する概念や実践の移入を前提にするものではない。文化や日常生活、労働、スポーツのなかなど、いたるところに出現する欲望の両義性の論理に立ちむかうこと、生産性や利潤などとは異なる指標にしたがって労働や人間活動の合目的性を評価しなおすこと、こうした精神的エコロジーの要請は、個人や社会的切片といったものの総体が適切な仕方で動員されなくては実現できない。たとえば、子どもの世界や退行化するおとなの世界における、侵略、殺人、強姦、人種差別といった幻想(ファンタスム)に対していかなる位置づけをおこなったらよいのか? 道徳的大原則のもとに検閲と拘束の手続きを倦むことなく発動するよりも、むしろ、そうした幻想の表現のマチエールを転移、移動、転換することをねらった、まさにその名に値する幻想のエコロジーを促進すべきではなかろうか。《実行行為への移行》に対して抑圧が行使されるのはもちろん正当なことではあろう! しかし、それ以前に、非建設的・破壊的な幻想に見合った表現様式の整備をおこない、その幻想が精神病の治療の場合と同様に、漂い出そうとする実在の領土にあらためて接着しなおすような仕方で解除反応が生じるようにすることが必要なのである。このような暴力の《横断性化》によって必然化されるのは、自我の領土がその一貫性と注意力を失なったとたんに、行く手にあるすべてのものを荒廃させようと絶えず待ちぶせ、身がまえている精神内在的な死の欲動というものの存在を必ずしも前提するにはおよばないということである。暴力と否定性はつねに複雑な主観性の配備から生じる――それは人間という種の本質に内在的に組みこまれているものではない。暴力と否定性は多数の言表作用の配備によって構築され維持されるのである。サドとセリーヌは彼らの否定的な幻想をほとんどバロック様式にまで高めようとつとめ、それ相応の成功にいたった。その意味では、彼らは精神的エコロジーの鍵をにぎる作家とみなされるべき存在といえよう。暴力がさまざまな姿に化身することに《想像をめぐらす》たえざる寛容と独創性を欠くと、社会はそれらの化身を現実のなかに結晶化させてしまう危険をおびるのである。」(

三つのエコロジー

三つのエコロジー

、p51-53)

私は、人が望まずに傷つけられたり殺されたりすることを支持しない。にもかかわらず、私自身が倒錯者であり、ヘンタイが伝播することを歓ぶ。ヘンタイの伝播は、生/性の開けと歓待性の全面的な開花にほかならない。倒錯者にとっては、冬の時代がくるだろう。それでも、ヘンタイ・アナーキストの歌は、それを聴きとりうる耳の持ち主には、確実に届くことだろう。ヘンタイ・アナーキストの歌は、特異で偏向した諸衝動を肯定するとともに、自他との間で、或いは自己と自己との間で形成される極めて複雑な関係の襞を《生きるに値するものに》練り上げる自己鍛錬を勧める。そのような鍛錬のみが、自由に、歓びに通じているからである。

(1)以下でガタリが挙げている「ちょっとしたこと」の例は、たとえば「料理」である。

結局、分裂性分析(スキゾアナリーズ)がなすことは、「どのようにあなたは自分をモデリングしますか?」(どんな鋳型によって)自分を鋳造しますか?)と問うことだけなのです。たとえば、あなたが精神病者であるとすると、あなたは特異な体質を基準として自分を構成するわけです。たとえば、オイディプス構造に縛られた家族関係にあなたは縛られてしまう。たとえば、あなたは自分の民族文化的な帰属が重要であるかのように集団施設――たとえば国民教育機関といったような集合的装備――に縛られ、それを大切だと思っている。そのように、そのつど、舞台も変わり、主役も、参照される神話も変わるのです。ある日、仕事に行かずにベッドに寝ていたら、昆虫になっていたかもしれないですしね。もしかしたらあなたには才能があり、『変身』(カフカの小説)を書くことになるわけですよ。
ちょっとしたことで、いわば小さな革命で、人生は変わるものです。場合によっては、高度に洗練された装置が必要になることもあります。すると、すべてが可能です。機械論的、構造論的にすすむものはひとつもありません。そうではなくて、何ものも保証されてはいないのです。どんなふうに解釈されようとも、どんなふうに分析的に位置づけられようとも、生活を変えたり欲望を解放したりするための切符がいきなり一気に与えられるわけではありません。
繰り返しますが、分裂性分析をすることは、あれかこれかというように二者択一的に鋳型(自己モデル)をつくりだすことではありません。次元を変えて鋳型をつくりなおす試みなのです。最終的に今の鋳型に、なぜ至りついたのか理解しようと努力することなのです。「あなたがはまっているその鋳型の調子はどうですか?」うまく機能していない? どうだか解りませんが、ならば一緒にやってみますか! 他の鋳型を接ぎ木できるか試してみることもできますよ。良いか悪いか、まあ、やってみましょう。標準型の鋳型なんて問題ではありませんよ。この場合、真の基準は、鋳型の次元の変化が、自己自身の変化になること、お好みなら鋳型の自己鋳造といっても良いですが、それになることなのです。」(

精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から

精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から

、p44-45)

(2)メールマガジン「MILK」の記事は、この点に関して次のように注意を促している。

少年が小児性愛者だったという報道が一部にあるが、その指摘はまったくの誤りである可能性が高い。同性愛者の少年たちの多くは、普段から学校や家庭内で自分のセクシュアリティについてオープンに語ることは許されておらず、性的な欲望を同世代の友人に向けることは普通はできない。そのため、どうしても自分の日常生活とは全く切り離された世界に生きる人間、そして、自分よりも弱者の人間を性的な欲望のはけ口にせざをえない状況におかれている。

今回の事件には少年を取り巻く様々な要素が絡んでいて、一面だけで語ることはできない。しかし、少なくてもこういったゲイの少年たちが抱えている問題を十分に理解していなければ、(同性愛者とされる)この少年を裁くことも、守ることも決してできないだろう。