死に対する態度

リンダ@不眠です。

今日、外務省まえで、見てはいけないものを見てしまったように
感じました。

亡くなったおふたりの遺体が外務省に運び込まれる現場に偶然
遭遇したのです。

毎日、外務省まえですから、ニュースを確認して狙って行った
わけではなかったのですが、マスコミ各社が取材に殺到し、
外務省全職員が外務省まえの通りに出て追悼ムード一色のなか、
関組長、加藤宣子さん、わたし、わたしの知人・友人らは
プラカードを掲げて立っていました。

転送した加藤さんのメールにもあったように、警察は、
遺体が運びこまれるとき声をあげたら逮捕すると
脅迫してきたので、黙ってプラカードを高く掲げるしか
抗議の方法がなかったのですが、

しょうじきいって、

わたしはじぶんが人間ではない、血も涙もない存在(モンスター)
になったような気がしました。

警官も、「死者に鞭打つなよ」というようなことを言ってくる。
しかし、わたしたちは、「これがわたしたちの追悼です」と言い返して、
「君がもし戦地に向かう隊員の妻なら何を思うだろうか」
イラク派兵反対」
などと大書されたプラカードを掲げて立っている。

死にいかに相対するか? というのは抽象的な問いでしか
ありえないばあいもありますが、
遺体が運び込まれ、全国民的追悼の儀式とでもいえそうな
セレモニーが上演される現場に居合わせてしまうと、
死がリアリティを帯びたものにも感じられれば、
逆に滑稽なもの、現実味のないものにも感じられます。

わたしは、「日本政府・外務省は死者を政治的に利用するな、美化するな!!」
とも叫んでいましたが、われながらじぶんのことを、
なんと血も涙もない非情な存在(モンスター)だろうと感じつつ、
しかしそうせざるを得ないとも感じている。

プラカードを横目に見て通り過ぎる外務省の職員たちの表情は
引きつり、こわばり、痙攣する。その変化を間近から睨みつける
わたし自身はなんと非情なのだろうか。

しかし、非情になり、モンスターになり、
イラク派兵に反対することでしか、わたしは自分なりの追悼の意思を
示すことができません。

でもほんとは、モンスターは、死者を利用する政府・外務省
およびマスコミの連中のほうだ、とも思っています。
こいつらは最低です。わたしの友人も「あいつら(← 死者を「ネタ」にして
商品をつくるマスコミの連中)は恥ずかしくないのかな、家に帰って
子どもに『お父さんはこんな仕事をしています』って堂々といえるのかな」
と感想を洩らしていましたが、同感です。「追悼政治」を捏造しようと
している政府・外務省・マスコミ。ひとに涙を流させ、その涙で飯を食う
ひとたち。(← 一部には良心的なジャーナリストもいるということは
勿論承知しています。)

自分の手は汚れていない、とも思わないのですが(なぜなら、死者を
反戦の動機づけにしているから、さらに、小泉のイラク攻撃支持を
通じて日本国民として間接的にイラクの大量殺戮・大量破壊に責任を
負っているから)、政治家や官僚やマスコミの手の汚れ方はわたしの
比ではない、比較を絶していると現場にいて思います。

http://peaceact.jca.apc.org/paml/1400/1455.html

これも現場に落ちていたのを関さんが拾ったテレビ局原稿ですでに
現地で知りえていたことですが、日本政府は最低だと思います。
こんなことをして、亡くなった方々が帰ってくるわけでもないのに!

死に対する最も敬意を欠いた態度があるとすれば、このような
欺瞞的な日本政府の対応ではないか、とわたしは思いました。
逆の立場の人からは、わたしたち抗議者は何か忌まわしい非国民のような
存在に見え、そう扱われてしまうかもしれないのですが。

すこし感情的になっているのか、乱文ですみません。