2003年、イラク攻撃。岡崎乾二郎さんの「言葉」への信頼について。

2003年にアメリカは、大量破壊兵器を隠し持っているという理由でイラクを攻撃したが、そのことに世界中で抗議活動、反戦運動(デモ、パレードなど)が行われた。美術家の岡崎乾二郎さんは、当時、イラスト(漫画)を描いてメールであちこちに送り、シールを作って街頭で通行人に配布したりしていた。それから、彼自身とその仲間のウェッブサイトも立ち上げて、彼のエッセイ『いかなる悪よりも恐ろしいもの』などが掲載された。

岡崎さんのように、突然アメリカのような超大国が、当時のフセイン大統領を「悪」であると決め付け、武力、軍事力で攻め込む、という展開が厭だし危機感を抱いた人々は多かったが、岡崎さんの考え方の特徴をいえばこうである。

彼が一番問題視していたのは、劣化ウラン弾の使用である。その兵器が、物理的に標的を殺傷するだけではなく、放射能兵器として人々にダメージを与え続けることを彼は非常に心配していた。それは現在でいえば、原子力発電所から漏れる放射能を心配するのと同じだと思う。

それから、もう一つは、岡崎さんが「言葉」による説得、信頼を重視していたことである。それは彼が当時書いた『いかなる悪よりも恐ろしいもの』という文章の題名と内容に反映されているが、彼の考え方では、確かにフセイン大統領は独裁者だったのかもしれないが、フセインとはまだ言葉、言語による対話とか交渉の余地がある、ということだった。それは完全に合理的とかヒューマンということではなかったかもしれないが、何らかの利権とか利害という文脈であっても、当時独裁者とか悪の枢軸と名指しされていた指導者達も実は対話・会話可能なのだ、というが岡崎さんの論点である。

それに対して、当時、ブッシュ・ジュニア政権が実行したイラクへの先制攻撃は色々な意味で問題である。岡崎さんが疑問視したのは、その内的な論理が破綻している、或いは論理そのものがない、ということだった。彼は、芸術やサブカルチャー、映画とか漫画などを例に挙げていたが、そういうものも一定の筋書きというか、内的なロジックがなければ構成できず、支離滅裂で滅茶苦茶なだけなら一つの纏まりにならないはずだが、彼には当時のアメリカの先制攻撃が理由も論理も何もないものだと思ったのである。

特に「大量破壊兵器があるはずだ」という大義名分が問題で、パウエル国務長官が国連でそういう内容を演説していたはずだが、パウエルという政治家が本当にそういう荒唐無稽なことを信じていたとは思われず、彼は役割だからやむを得ずそういう恥ずかしい演説をしたのであろう。当時国連の調査団によるイラクの査察活動が行われていて、フセイン政権は必ずしも協力的ではなかったようだが、とにかく査察がなされているのにどうして軍事攻撃するのか、査察で十分なのではないのか、というのが、岡崎さんに限らず当時戦争に反対していた人々の多くの考え方だった。そして、合理的、理性主義的にいえばそれはその通りだったのだろう。

そういう2003年の岡崎乾二郎さんとその仲間達、RAM DEMO SITEというウェッブサイトを創った人々の考え方について感想を述べれば、それは、小森陽一が現在、そういうアメリカの行為は「詐欺」であると強く非難するのに似ている。小森の発想は、反戦運動は明確な「詐欺」ということをはっきり問題にし批判していないのではないか、ということだったが、私はそんなことはなかったと思うし、当時の岡崎さんに限らず、軍事的な行動、先制攻撃には理由がないと主張している活動家は非常に多かったと思う。

岡崎さんはともかく小森陽一のいうことに違和感があるのは、アメリカによる軍事攻撃がまともな理由がない「詐欺」だと幾らいっても、別に戦争、先制攻撃を阻止することなどまるでできないし、事後にさえそれを裁く(例えば、人民法廷、世界市民法廷などで)こともできないということである。それは、五・一五事件で海軍の軍人に襲撃され、頭部を拳銃で撃ち抜かれて死に瀕した犬養毅首相が、「話して聞かせてやる……」と言い遺して死んでいったのを想起させるが、岡崎さん、小森さんの信念にも関わらず、残念なことだが、「話せば分かる」という救い、和解の契機は、決して訪れることがないのだ。

「言葉」と信

そういうことには漠然と考え方の違いが反映されているが、岡崎乾二郎さんにとっては、言葉とか理性による対話、説得の可能性が決定的に否定され失われることは脅威であった。それによって世界が決定的に恐ろしいものに変貌すると感じていたのである。だが、私はそういうふうには少しも思わなかった。

岡崎さんであれ現在の小森陽一であれ、「信」というレヴェルが大事だということではないかと思うが、私はそうは考えていないということである。小森が「詐欺」を断罪し続け糾弾し続けるならば、いつか真理や正義が実現され、詐欺が詐欺として否定されて、詐欺ではないまともな言葉で人々がコミュニケートし始める、という理想を思い描いているのだろうが、あり得ない話である。

衒学的に過去の思想家をあれこれ持ち出すつもりはないが、「信」という次元は消去したり省いたりできないと思った人々は膨大にいる。つまり、宗教とか倫理・道徳は人間の生活にとって不可欠なのだと考えた思想家が多かったということだが、私自身はそうは思わない。何かを信じることなど重要ではないし、無意味なのだ。私のその信念(信じない信念というのも、いささか矛盾した表現ではあるが)はこれまで全く揺らいだことなどないのである。

彼が寿命を迎え……

私の考え方を申し上げれば、こうである。石原慎太郎東京都都知事を批判する人々は多いが、選挙で彼を落とし排除することができないのならば、彼が寿命を迎え生物学的に死ぬのを待つしかない。アメリカが専制的に振る舞うのをやめさせたくても、具体的にそうする手段がなければ、アメリカの力がどうしようもなく衰えてくるということ以外に、そういうことがなくなる可能性は皆無であろう。

石原慎太郎がそれほど間違っているなら、どうして彼は選挙で大勝し続けているのか。それが現実のはずだが。愚民観を隠し持ち人々を軽蔑しているのは、私ではなく、貴方がたのほうである。それを自覚したほうがいい。

「言葉」が滅びるとき

私は事実を指摘しているだけなのだし、貴方がたのくだらない「言葉」がそれを覆すことなど一切全くできるはずがない。美辞麗句やただの恣意的な空想は、それ自らの無力によって、現実から徹底的に否定され滅ぼされてしまう。それがただ一つのまともな物の見方だというのは変わることがない条件である。

If you can do...

社会を変えたい人々がいるとしても、彼らの善意や信仰などがどうあれ、無理なものは無理である。まず議会についていえば、現在が小選挙区制だというのをどうすればいいのか。何に期待してもいいが(社・共だけでなく緑の党もできるそうだが)、どうなることやら。

それが迂遠だから、直接的な手段に訴えたい人々も一定数いるが、そういうやり方も成功しないと私は思う。別に私と意見を同じくしていただかなくても全く構わないが、私からいいたいことは、「できるならやってみろ」、という一言だけである。実際には、「レーニン主義者」などには全く何もできるはずがないのだ。

近頃の自称「レーニン主義者」達

私は先程「レーニン主義者」と申し上げたが、白井聡さんのようにレーニンを専門的に研究している人々もいるのだろうが、彼らというよりは、市井の人々で、最近いきなり「レーニン主義」を標榜する人々がいるのである。彼らと対話してみると、暴力革命以外に社会を変革する方法はない、という信念が彼らのいうところの「レーニン主義」の核心であるようだ。

私がそういう人々と考え方が一致しないのは当然だが、少なくとも20世紀におけるレーニンレーニン主義者達は、党を率いていたり、或いは、党と深い関係があったはずである。そしてその中央集権性の是非がよく議論されていたと思うが、そういうことは21世紀の現在、一切全くどうでもよくなってしまったのか、或いは、そういう中央集権的な統制が様々な葛藤や軋轢などを生んできた史実を完璧に忘却したのだろうか。

それはどちらでもいいことだが、私が知る限り、そういう自称「レーニン主義者」の多くは、政党や党派などに属していないし、さらに、自らそういうものを立ち上げるつもりも能力もない。だから、はっきりと申し上げれば、主観のなかだけでどこまでもラディカルになっているだけなのだが、そういうことにはもっと絶望したほうがいいのではないだろうか。

ジジュクやネグリなどにレーニン論があるが、現代の論客がレーニンの思想と実践を再検討するのだとしても、一番のネックは、現代世界においてかつてのようなプロレタリアートの前衛党を再建することが全く不可能であるという端的な事実である。そこからイスラーム原理主義(復興運動)、過激派・過激勢力、アルカイダなどに期待するジジェクの愚劣な意見が出てくるが、そんな意見を誰も信じないのは当たり前のことである。

「小ブル急進主義」に呆れ果てる。

私は批判するというよりも呆れているが、例えば、すが秀実はかつて揶揄的によくいわれていた「小ブル急進主義」が実は素晴らしいから、それを標榜するし自ら実行する、というようなことである。ジジェクは、現在アルカイダに期待しているが、歴史的なことでいえば、ローザ・ルクセンブルグの蜂起は失敗したが、絶対に必要だったのだということを、彼なりに単純化して曲解したラカンの屁理屈で正当化している。

すがやジジェクの主張などどうでもいいことだが、私が思うのは、彼らが現代、つまり事後においてどういうのだとしても、当時の現実状況において、ローザ・ルクセンブルグ及び彼女と共に蜂起した仲間達は、虐殺されてしまったのではないのか、ということである。そういう現実の歴史があるのに、ただ単にローザ・ルクセンブルグを称えるジジェクは、安全圏から適当なことをいっているだけなのではないのか。それほどまでにアルカイダが素晴らしいのなら、まずお前が入れ、と言いたいところである。

社民党、共産党、「もっと左」。

そういうことをいう私自身は何もやっていないのではないか、ということについてだが、昔社民党に入ろうとしたことがあり、社民党の専従活動家と話し合ってみたが、結論は、党費を払うことがどうしてもできない、ということであった。それから、もう名前は忘れたが、Twitterで何か勘違いした人が接近してきて、しきりに日本共産党への入党を勧めてきたが、私が冷淡に拒否したのは当たり前である。

別に共産党でも良かったのかもしれないが、「民主集中制」に猜疑心を抱いているということだし、共産党員でもそれなりの「自由」はきっとあるのだろうが、プロレタリア詩人の安里健(徳田ミゲル)などを観察すると、そういうあり方にも深い疑問を持たざるを得ない。

かつて「社会党」を名乗っていた現在の社民党にも、必ずしもプラスの部分だけではない負の歴史があるのではないかという指摘も数多く、それは共産党の支持者や共産党よりももっと左の勢力の支持者などから寄せられているが(根っからの保守主義反共主義からの揶揄は除く。例えば硝子たんさんは社民党政権担当能力がないことを執拗に非難し続けているが、そしてそういう人々は膨大にいるが、私は正しいと思ったことがない)、確かにそうだが、共産党でいいのか、共産党が正義なのかは疑問であろう。

記憶を辿ると、共産党員、共産主義者接触したことは高校生の頃あったが、どうしても意見が合わなかったということで、それもまた致し方がないことである。そういうならば、私が意見が合致した人々が誰かいるのか、という話にもなるが。

応答への応答

Twitterでこういうリプライをいただいたが、私は別に賛成して欲しかったわけでもないのだが。現在あるのを「心情的市民主義」と呼んでいいのかは分からず、私が先程のエントリーで申し上げたのは、「暴力革命」しかないと主張する自称「レーニン主義者」がいるし、そういうふうに、過去を一切批判的に反省していない勢力がどんどん復活してきている、ということである。恐らく復活しているのはレーニン主義だけではなくこれまでに存在したありとあらゆる衣裳が、その歴史性を問うことなく再び「現在」という舞台に恥知らずに再登場してきている、ということであろう。

日の丸・君が代についても激しく論争がなされているようで、大日本帝国のアジア侵略の「象徴」だから、それをもっと日常的に冒涜すべきだし、引き裂くべきだし、汚すべきなのだというのがひびのまことさんの意見だが、私は、ひびのさん一人が勝手にそうすればいいだけだと思う。戦前の日本の帝国主義的な侵略を批判することと、そういう派手な挑発、パフォマンスは、まるで関係がないことである。

noharra
2012.07.08 09:19
@femmelets さんの意見だが、激しく同意したい。党派を作る真似事をするのは、70年代の初めには誰でもやっていたことだ。反差別とか反レイシズムとか言っただけで他者を排除できるという思考法が全く分からない。党派を作ってから言うべき

noharra
2012.07.08 09:23
もちろん党派を作るべきだと言っているのではない。自己の普遍性の基盤が、心情的市民主義といったものでしかないのに、他者(例えば日の丸に違和感をもたない穏健派)を排除すべきとする原理はありえないと思う。@femmelets

「啓蒙」の弁証法、光と闇。

私自身の考え方を要約しておきたいが、例えば、吉本隆明は無知蒙昧で誤謬であった、教養がなかった、と馬鹿にする多くの人々、実に偉そうな知識人の方々がいるが、私自身の批判がかつての吉本の「全否定」に少し似ているから、同じ理由で攝津も否定できるし否定すべきだという人々も多いだろうし、彼らから反動家、反動主義者などとレッテルを貼られても私は平気だが、それこそほんの少し前の歴史を振り返るべきであろう。

政治的行動主義を性急に支持する人々とそうではない人々が一致することは絶対にないし、和解もないし、いつまでも執拗に対立が残り続けるというだけだというのが、昔も今も全く変わらぬ現実である。その対立において大事なのは、実は理屈ではない。非常に感情的な否定だけが問題になっているのだ。

政治的に行動しない人々、立ち上がらない人々を攻撃するために、最初に持ち出される理屈は、彼らは無知蒙昧で無教養なのだ、「正しい知識」がないのだ、というような、啓蒙主義的な偉そうな「上から目線」のくだらない言説である。そうすると、自分達が正しい知識とか、正義だと勝手に僭称される政治イデオロギーを「外部注入」すれば、大衆は自分達の思うように「行動」するようになるのだ、などという馬鹿げた錯覚に到達するし、そういう意味での「レーニン主義」の悪を少しも反省しない人々が多いのである。『啓蒙の弁証法』などを読んでも、自らが同じことをやっていることに無自覚な愚劣さはどうしようもない。

それから、非常に矛盾しているが、それでうまくいかないと、「物識りなどクソくらえ」とかいう感情論に飛躍する。そもそもレーニンがそうだし、そういうレーニンのくだらない妄言を讃美するネグリ、そのネグリの誤謬を褒め称える白井聡さんなどだが、驚くべきことに、現在存在する「知識人」は、外国ならネグリ、日本なら白井さんのような連中だけなのである。

こういうふうに分裂していても自分で気付かず、恥辱も覚えないというのが、現代人の99%のありようで、そういう人々は、自分自身の現実の無意味さによって滅びる以外にないというのが、私自身の考え方である。