ハービー・ハンコック・トリオ '77

ジュリ・アレン / ザ・ライフ・オブ・ア・ソング

ザ・ライフ・オブ・ア・ソング

ザ・ライフ・オブ・ア・ソング

敦賀明子 Akiko Tsuruga / Oriental Express

Oriental Express

Oriental Express

敦賀明子http://www.akikotsuruga.com/)の新作を聴く。

感想

このエントリー(http://mukofungoj.sanpal.co.jp/status/1597/)を巡る、noizさん(http://mukofungoj.sanpal.co.jp/)とグリルドチーズ願望さん(http://twitter.com/GrlldChsAsphttp://thegrilledcheeseaspiration.tumblr.com/)のやりとり(今は消去されている)を読んでの感想。
人のブログを荒らしてばかりでは悪いので、自分のブログに書くが、私は、「ジェンダーやくざ」「フェミナチテロリスト」上等という開き直りには懐疑的である。そんなふうに過激に自分を見せかける語りを展開してどうなるというのだろうか。偽悪的、露悪的だと感じる。
私はリベラルな公正、正義が存在していると思っているので、彼らのアナーキズム的倫理観に違和感を持つ。

リニー・ロスネス / 黒水仙

黒水仙

黒水仙

する?できる?

両親が亡くなって、ほかに手段がなくなれば、単純作業だろうと肉体労働だろうと、労働するだろう。今は親が反対するので、できない。
音楽の仕事で喰っていけるのかは不安だが、やってみるよりほかない。
他人に比べて優れた部分が特にないのを自覚しているので、駄目じゃん、とも思うが。
哲学、文学、ジャズピアノ、津軽三味線、全部中途半端だ。無能の人不能(インポテンツ)の人。

コミュニズム / アナーキズム / リベラリズム / ネオリベラリズム

私は自由主義者である。大学生の頃から今に至るまで、変わっていない。
早稲田大学で、自治会の左翼学生から、なんでそんな古臭い思想を信奉しているのか、と訝しげに問われたのを思い出す。
アナーキストを自認する友人のブログのコメント欄で、自分は自由主義者だと立場表明したので、この機会に自由主義の曖昧な位置について少し考えてみたいと思う。

早稲田の左翼学生が自由主義を古臭いと思ったのは、宇野段階論的に言えば、自由主義段階は既に超克され、帝国主義段階も末期、当時の用語でいえば「国家独占資本主義」(国独資)段階にある、といった認識がかれの側にあったのではないかと思える。とすれば、資本主義のその段階に対応する思想はマルクスレーニン主義であり、自由主義などは「古臭い」。かれがそう推論したとしてもおかしくない。

私は頑固な自由主義者なのであるが、幾つか予想される反論がある。
私が気に懸けているのが、自由主義では新自由主義を批判できないのではないか、という批判だ。
ネオリベリベラリズムから出てきた。「経済活動の自由」だけを奇形的に肥大させつつ、人間の全的な発展を顧慮せずに。そのようなリベラリズムの「鬼子」としてのネオリベをどう考えるか。
一部の論者は、ネオリベ批判のためには国民国家に依拠すべきだと論じる。しかし果たしてそうなのだろうか。

ちょっと脱線すると、ネオリベというのは、ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』で論じた、帝国主義に似ている。国民国家の枠組みを打ち壊してしまう、資本の野蛮な欲動という点で。アーレント書において帝国主義国民国家の相克が結果的にファシズム全体主義スターリニズムなど)を生み出してしまったという反省に立てば、ネオリベにも同様に危惧がないか、懸念される。

私がリベラリズムという時、個人の自由(自由権)、それも特に精神的自由を重視している。ジョン・ロックからジョン・スチュアート・ミルに至る系譜である。
ところが、ネオリベラリズムにおける経済的主体=資本とは、非人格的、非個人的であり、集合的(集団的)であり匿名的である。
国境さえ越えるグローバル資本には顔がない。個々の資本家は存在するのだとしても、資本そのものは非人格的なものである。要するにグローバル企業ということなのだが。
ネオリベラリズムにおける自由(経済活動の自由)の主体は、例えば、民権か国権かという二分法をはみ出るものである。グローバル資本は明らかに国権ではないが、民権でもない。

新自由主義ネオリベラリズム)の経済活動の自由の主体=グローバル企業への批判を、共産主義者アナーキスト無政府主義者)、自由主義者は行うことができる。

また脱線だが、コミュニズム(「共通のもの」を求める思想)を共「産」主義と訳すのは生産力中心主義的な害があるのではないかと言われることがあるが、同様に、アナーキズム(「支配者のいない社会」を求める思想)を無「政府」主義と訳すのも語弊があると思う。現代のアナーキストは、国家(政府)のみならず、グローバル資本やIMFのような主体も批判し攻撃するからだ。

脱線が過ぎたが、私はマイミクのでぶさんのような専門的な観点からではないにせよ、倫理(倫理学)、道徳を書きたいのである。自由主義の倫理を主張したい。私の考えでは、それは個人の人格的発展である。全体的人間の発展。それはミルの思想だが、マルクスの思想の或る側面(自然主義人間主義的なと言われる)もそれに呼応するところがあると考えている。
マルクスは『資本論』の第一巻でベンサムを侮蔑したが、それは旧世代のラディカリストの唱えた自由なり平等なりがお題目でしかなく、最大多数の最大幸福といっても現実に多数者であるプロレタリアートは貧窮に喘いでいるという皮肉であった。
私はマルクスが馬鹿にしたり、通俗的だと非難したからといって、ベンサムからミルに至る自由主義功利主義(それらは必ずしもイコールではないが)を無視したり軽蔑するのは間違っていると思う。

共産主義者コミュニスト)から予想される反論は、そのような個人主義的な倫理は現代資本主義社会において役に立たないというものである。そうかもしれない。だが、倫理は個人においてしかない、のではないか? そうではないかもしれないが、一考に価する思想だと思う。

私には、個人の自由を不当に制約しない共産主義社会、社会主義社会を想像することができない。かつての「現存社会主義」の重い負の遺産がのしかかる。

私から共産主義者に言い返すとすれば、あなたがたは集団性の名において個人を、個体を犠牲にしているのだということだろう。

では、アナーキストはどうか?
アナーキストリベラリストの違いは、資本主義の害悪に自覚的であるか否か、といったところにあるように思う。しかし、少なくとも、資本主義の弊害に気付き、改善の努力を模索するリベラリストといった存在も想定し得るのではないか?
もう一つ。リベラリストのいう「自由」は、国家が法権利として認めた限りのそれである場合が多い。他方、アナーキストにとっての自由は、スピノザ風に言えば、「自然権」としてある。これは大きな違いである。国民国家を認めるか。資本主義を認めるか。共同体を認めるか。

リベラリスト(私)からアナーキストへの反論はこうである。現実は、現存する秩序は、国民国家であり、資本主義であり、共同体(家族のような)である。だから、その内側に位置することを自覚し、少しずつ改善改良すべく進むしかないのではないか、というものだ。
私は、オルタナティブ、「もうひとつの世界」は可能だし、存在する(し得る)と思う。但し、現存社会とその諸条件を無視してはそこに至ることはできないと思う。

纏まりがないが、ここで一旦送る。

富樫雅彦&J.J.Spirits / ソー・ホワット

ソー・ホワット(紙ジャケット仕様)

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ネオリベ批判

別の道はないのか?
私は個人としてはリベラリストであり、社会的には社会民主主義者である。しかし、そのような立場性は吉本隆明が言ったような「擬制」、欺瞞、ソフト・スターリニズムでしかないのか?
よく分からない。
だが、私は私であるよりほかない。

インポの女王様

と或る同性愛者の批評家が、ジル・ドゥルーズに悪意に満ちた手紙を送り、その中でドゥルーズのことを「インポの女王様」と呼んだ。ドゥルーズの応答は『記号と事件』にある。
まあそれはいいとして、私は不能(インポテンツ)である。
ということは、例えばファシズムに顕れる享楽=ジュイッサンスに対して冷感症だということではないか?
性的・政治的熱狂を知らない冷感症の女、それが私ではないか?

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

秋吉敏子 / ホープ

ホープ

ホープ