攝津正自叙伝1

わたしは、1975年5月に、大分県の何処かの病院で生まれた。母親である攝津照子は当時40歳で高齢出産、大阪ではどの病院からも断られ、中絶を勧められ、故郷である大分に帰ってようやく受け入れてくれる病院を見つけたのだ。

正確に何日に生まれたのかは不明である。誕生日は5月21日ということになっているが、祖父が亡くなったため、出生日をずらしたという話を聞いている。だから正確な生年月日は不明なのである。公式の記録に残されている生年月日が、1975年5月21日だった。

わたしは、「おめちゃん握り」をして元気に生まれ出たと聞いている。おめちゃん握りとは、人差し指と中指の間から親指を差し出して握る握り方である。赤ん坊のわたしは、どういうわけか、両手でおめちゃん握りをして生まれたのだった。医者は、「この子は大きくなったらスケベになりますよ」と言った。

看護婦が、母親に、「元気なお子さんですよ」と言ったが、わたしを初めて見た母親は泣いてこう叫んだ。「先生は嘘言った。指が5本もあるじゃないか!」

どうも、これまで動物ばかり飼ってきて、動物は脚の指が4本なので、人間の指の数が5本であるということを忘れていたらしい。そのための錯乱だった。母親はわたしをひっ抱えて飛び降りようとしたらしいが、錯乱は治まり、現実を理解した。