賃労働九十六日目

攝津正 9:00-17:00 6時間45分。時給850円。正月手当25%増し。
行きの電車内でベニー・ゴルソン『ゲッティン・ウィズ・イット』『ニューヨーク・シーン』聴く。
労働。昨日の疲弊を引き摺っている。人生疲労系。自動モード。

ニューヨーク・シーン+1

ニューヨーク・シーン+1

帰りの電車内で「記号を適切に解釈するとはどういうことか」ということを考えるが、最終的に真理論や正義論など哲学の基本的テーマと結び付くことが分かった。

美の根拠

後藤雅洋さん(id:eaglegoto)からの質問。

摂津さんのお考え、だいたいわかりました。特に反対するところはありません。しかし、仮にあなたが美的価値や文化的価値をお認めになるならば、それらの価値を共有する共同体(さまざまな形態、規模が考えられる)に参入するしかないのではないでしょうか。質問ですが、あなたは美の根拠を何に求めておられるのですか? もし、あなたが、美的価値は個人の主観に属するもの、あるいは、美に根拠などない、従って、あなたが美しいと思うものを、他の誰も認めなくてもかまわないとお考えならば、また話は別ですが、、、仮にそうお考えだとしたら、文化というものは崩壊してしまいますよね。もっとも東浩紀さんは、「動物的」というキーワードで、現代はまさにそうした状況であると言ってるのですが、、、

答えに窮する。記号解釈という観点からすれば、ジャズならジャズという記号を適切に解読し、応答するのが「正しい」ことになるが、その適切さなり正しさの根拠はどこにあるのか。プラグマティックに言っても、美的体験を共有する者らの共同体の公共的合意によるしかないのではないのか。さもなくば、徹底的な個人主義というかアナーキーか。

少し迂回して哲学史的に考えてみれば、プラトンは美の根拠を「美のイデア」にあると考えた。カントは美の根拠を主観の諸能力の協和にあると考えた。ヘーゲルの美学はどうだったか。現象学者らは多く、美的体験の現象学を絵画に求めた。ハイデガーゴッホメルロ=ポンティセザンヌアドルノは音楽を考察したが、商業主義的であるという理由でジャズを全否定した。

私自身はといえば、美しいものは「美」故に美しいというプラトンの見解に賛成せざるを得ない。しかし、個々のものが美を分有していると判断するのは誰なのか。そしてその根拠は、というところで行き詰まる。

可変的なる諸規則、複数的なる諸規範という私のもともとのテーマに則して言えば、既成の解釈枠組み・価値観・諸規則に従う美的判断と、それを突破し新たな規則を創設するような美的判断があるように思われる。私が開かれた聴取とか自由聴取と呼んだのは後者である。しかし、そのような聴取を行う権利は誰にあるのか。そして、その資格を決めるのは誰が・どのようにしてなのか、というところで再び行き詰まる。

結論はすぐには出ないが、継続して考えていきたい。

↓私のコメント。

ブログ本文でも書きましたが、美的判断の根拠というのは難しい問題です。私自身最終的な結論を出しているわけではありません。しかし、先走り的にいえば、既成の諸規則に従う判断と、規則創設的な判断があるように思います。例えばビバップが出てきた時、必ずしも好意的な反応ばかりではありませんでした。ルイ・アームスロトングは「中国人の音楽」などと揶揄していたわけです。ビバップがマッセイ・ホールのライヴで一旦終了し、ハード・バップとして成熟した後、フリーが現れますが、これについても賛否両論でした。また、電化マイルスについても同様です。そこから言えるのは、美的判断は「抗争」からしか生成しない、ということではないでしょうか。意見の普遍的一致ではなく、不同意、齟齬、対立、差異があり、結局何が美しいのかを決めるのは「歴史」のように思われますが、「歴史」なる超人格的なる主体があるはずもなく、歴史を作るのは個々人の匿名的な群れです。私が考えられるのは、ここくらいまでです。

セロニアス・モンク『ザ・ユニーク』

ザ・ユニーク

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