観念論者の「投稿」史観

わたしはとりたてて進歩的でも「反動的」でもないつもりだが、それでも最近の世の中にはわけのわからぬことが多過ぎる。正直ついていけないと感じている。それはとりわけ3.11以降の脱原発/反被曝、放射能問題である。

物理学に明るくないわたしでも、なるほど確かに放射線は危険なのだろう、一定の閾値を超えた放射線被曝があるならば、その危険への対応や対策や防御も必要なのだろうということまで否定するほど頑迷ではない。健康被害があるとしたら、行政や大学、病院が介入する必要もあるのだろうと思う。まずは調査、それから治療を含めたケアということだが、どうやら世の中はそういうことになっていない。

評判のよろしくない2ちゃんねるとか、海のものとも山のものともしれぬ連中がブイブイいわせているTwitterなども含めてのネット言論を含めた世論ということなのだが、どうも読んでいて眼を疑うとか理解し得ない意見や主張が多い。例えば、3.11で福島第一原子力発電所が事故を起こしたわけだが、そこで漏れた放射性物質の影響はどの範囲まで及んでいるのだろうか。わたしは素人なのでくわしいことは専門家やジャーナリストにお任せいたしたいという完全完璧な「臣民」だが、どうも、わたしが住んでいるこの船橋(千葉県ですよ千葉県!)からさえも「みんなで避難」すべきだという2ちゃんねらーや、彼または彼女が参照しているのだという「市民運動家」たちがいるのだという。わたしはそんな「市民運動家」の意見読んだことがありませんが、わたしが知らないだけでそういうアクティヴィストは存在するのかもしれない。存在するのかもしれないというか、大いにありそうなことだ。類推すればね。

それから最近、反原連がIS、イスラム国と同じであるとかないとか失言して炎上したフリージャーナリストの田中龍作氏。その失言そのものについてはわたし自身は一回もそのデモに参加などしていない反原連の問題だと思いますが、彼が今朝例の東海アマをリツイートしていた。東海アマはいつものアレだが、どうも、放射能被曝に人間は打ち勝てないので(そりゃ重力の法則にも打ち勝てませんしね)、「信頼ある反原発なかま同士で過疎の田舎に移住すべきだ」とおっしゃるのだよ。もう数年間見慣れた光景であるとはいえびっくらこいたが、RT、リツイートをあげつらってそれだけで判断してはいけないとはいえ、田中氏も東海アマと同じ意見なのだろうか。そうして、多くの反被曝派は……。

わたしは自由主義者なので、経済的には積極的に新自由主義を支持はしないが(但しアベノミクスやリフレ政策には否定的態度は採らない)、政治的にも文化的にも自由主義である。「文化的にも」というのは、いかなる意味でも、ありとあらゆる意味で「頽廃文化」なんかないよということだね。80年代のバブル期の文化についても90年代サブカルについてもいろいろなことをおっしゃるひとがいるが、わたしは一切聞き入れない。ということで例の木下ちがや氏(「こたつ猫」を名乗る「だっちゃ政治学者」。恥ずかしいことこのうえないですね。いい歳したオッサンがね)・野間易通氏(編集者とかライターってのはこういう「反体制」が多いのかい?)・番長(「民衆の音楽」グライム? 笑わせんじゃねえよバカ)たちが展開する「サブカル論争」に移っていきたいのだが、その前に放射能問題について一言しておくが、別にこの船橋からさえ出て行きたい、引っ越したい、「過疎の田舎」とか外国とかに疎開したひとびとに対して、制止したり反対したり邪魔したりすることはないよ。だけれども、積極的に支持したり支援することも絶対にあり得ないね。そういう「リスク」なんかわたしはないと思うからね。冷酷非情なようだが、それがわたしの最終的で絶対的な意見だ。憲法に住居移転の自由は書いてあるから、現行法の枠内で勝手にしろということだ。それだけ。

そうして最近無意味に賑やかになっている「サブカル論争」ですが、まあ、安倍政権の相対的に右寄りの政策であるとか、秘密保護法とか、将来的な改憲集団的自衛権がどうのとか。また、新大久保や鶴橋などの在特会などのヘイトスピーチがどうのこうのということで、かつての男組・しばき隊、いまのC.R.A.Cとかなんとかの連中がいるわけだが、何がどういう理路でそうなったのかまったく理解不能だが、「冷笑野郎」や「逆張り」や傍観を許さないとかなんとかいうリクツが暴走して、いまや「サブカル」が問題である。その後のネトウヨやヘイトを生み出した(???)80年代から90年代の文化状況から「根本的に批判」すべきであるとかないとかいう妄想に走っている。

もはや呆れ返って口をあんぐり開けて、このキチガイ、政治狂。勝手にしろ。知るかという感じだが、わたしは断固として「反共的」であり「アンチ運動」ですよ。反共というと極右なのか、ファシストなのか、またはネオリベと勘違いされ勘ぐられそうだが、自由主義者ってことだが。そうして、アンチ運動もなにもグループにも政党にも入ってないし、これからも入るつもりはなく、デモにも行きません。集会にも。そういうことなので、わたしには関係ないことだとおもっていたのだが、「サブカル論争」わけわかりませんね。

最近読み始めたばかりなのですが。

最近、日本でも、新自由主義的な風潮に共鳴して、リバタリアン自由至上主義者)と称する人たちが出てきました。「国がそこまで口出しするなよ。そんなの個人の自由にまかせればいいの」といった主張です(蔵研也『リバタリアン宣言』)。国に干渉されたくないという気分が、新自由主義の主張する「小さな政府」などへの共感へむすびついているようです。

個人の自由を尊ぶ気持ちはわかるのですが、新自由主義のめざす「自由」とは、個人の自由のことではありません。むしろ個人の自由を侵害するものです。

にもかかわらず、「自由」という言葉が錯覚をあたえ、新自由主義的政策にたいする漠然とした支持につながっているのではないかとおもいます。そのことによって経済的利益を得る人ならともかく、そうでない人まで受け入れてしまうのは、「自由」という言葉にたいする誤解があるのかもしれません。

私は以前から、新自由主義という呼び方そのものがおかしいとおもってきました。なぜなら「新」がつくまえの自由主義と、「新」がついたあとの自由主義とは、「自由」の中身がまったくちがうのに、おなじ延長線上でとらえられてしまうからです。


これは日本共産党参議院議員大門美紀史先生の『新自由主義の犯罪』(新日本出版社)の13ページから14ページですが、わたしは「共産党マニア」とかそういう意味での「共産趣味者」ではありませんので、大変申し訳ありませんが大門先生のお名前もごく最近まで存じ上げておりませんでした。先生の存在を知ったのは上記の木下ちがや先生が罵倒していたからです。なんでも、おい、土建出身のくせにそんな市民みたいなこと抜かしやがって、労働者の精神を忘れたのか。闘う姿勢を見せてみろ?

とか文字面だけ拝読すれば、いやはやこれが政治学者とか社会学者とか大学の教員なのか、どこぞのチンピラかヤクザなのかと驚く次第ですが、これで木下氏は大門氏からTwitterでブロックされ、そのことへの不満をツイートしていましたので、大門氏の存在を知ったというわけです。そこでその大門氏が新自由主義についての著書を公刊されていると知り、少しずつ読んでみることにした次第ですが、まあわたしの浅い理解ではものすごく常識的な議論だと感じます。ところが、他方、偉大なるだっちゃ政治学者・木下大先生は、どうやらヘイトスピーチ絡みの表現規制への賛否・是非問題で「社会民主主義リバタリアニズム」という対比を提出しておられる。どこから後者を「アナルコ・キャピタリズム」とも言い換えておられたと思いますが、そうすると最終的に福祉国家的な大きな政府を目指す社民主義と小さな政府の「新自由主義」との対立と重ならないのでしょうか。偉大なる政治学の大先生はそこまでは主張されていないとおっしゃるかもしれませんが、そうだとしたら、最近の「キモヲタ」「セクシスト」(艦これとか、『マルクスガール』山本夜羽音先生の二次元美少女アニメ趣味程度でそういう決め付けなんですかね)、「サブカル論争」まで幅広く拝見いたしますが、戦前の戸坂潤の『日本イデオロギー論』、そこにおける小林秀雄西田幾多郎などなど「政治的自由主義」「文学主義」「解釈学」などへの「行き過ぎた教条的で公式主義的な批判」をどうしても想起しないわけには参らないんですよ。木下大先生は、社会学なかまの北田暁大先生なども援用しつつ、このところ吉本隆明スガ秀実氏への不信や批判も喧伝されていることですし、そういう「政治主義」、「だっちゃ政治学主義」なのではないかという疑念も日々大きくなる一方なので御座います。

もっとも、左翼でもラディカルでも活動家でも市民運動家でもない、リベラルと称してはいるが実際には保守反動のエゴイスト、現状肯定の体制派デブ、ごくたまに(違うと思うんですが)極右ファシストとか新自由主義者とか、はたまた「殺人者」「極悪人」とも罵られておりますこのわたくし、陛下の臣、阿Qの……いえ。「阿久悠」の徒を自認する、しょうもない市井の一匹の豚か茹であがった蛙のような卑小な存在でしかない、まったく虫けらのようなこのわたくしに、木下大先生たちが展開される深遠なる大政治学のものすごい真理、「内的な真理と偉大さ」が理解できるわけもないというのは自明なことなのであります。大門先生は共産党の国会議員ですが、まあ、そういう名士に比較しても政治学の大先生という偉大なる政治学者、学者先生、知識人の絶対的優位というのは火を見るよりも明らかですので、恐らく、大門先生の躊躇した書き方にも書き方にもかかわらず、とりわけ90年代サブカルなんぞと結び付いたリバタリアニズム、「自由至上主義」は反動とか「ネオリベ」として否定される運命なのでしょう。木下先生は次から次に罵声を浴びせてこられております。いわく、「表現の自由」に関する「日本国憲法の薄っぺらい読み」(どうもすいませんでした。なにぶん憲法学者でも偉大なるだっちゃ政治学者でもありませんもので。社会学者でも。本当にすいませんでした)。「世界基準からすれば日本社会は自由過ぎる」(ヘサは──臣・攝津はちがうのですが──国内的、ドメスティックであるそうで、視野が狭くて誠に申し訳ありません。ですが、わたくしはいまのこの過度の自由な日本社会が大好きであります)。「表現の自由はおめーらのちんこの自由ではない」(これまた失礼いたしました。どれほどマイノリティであろうとなかろうと、生物学的に男性身体に生まれついた以上、「男性特権」を問題視されるのは当たり前のことなのであります。例のはるなはえらかったですね)。

まただっちゃ政治学の大先生とその愚連隊、チンピラなかま、いや子分どもは河添誠先生とも揉めております。日本の労働組合運動の重鎮で、いつも社会運動のあるべき姿について呟いてばかりおられる偉大な方で、やはり、誤ることなど絶対にあり得ない方で御座います。氏によれば、いまの安倍政権を極右とかファシストと規定してしまうと、新自由主義の側面が見えなくなってしまうそうですが、体制派デブの反共主義者である臣・攝津にはどうでもいいことなんですが、ですがそれでも、ことが「サブカル」とかなんとか、それにとどまらない現在の「自由過ぎる」日本社会に及ぶとなれば黙っているわけには参りません。卑小なる虫けらのような臣・攝津、わたくしめにできることは、せいぜい、大先生に反対して自分の無力な一票を反対党に投じることくらいしかないのであります。あっ、ここで、別に木下大先生とか河添大先生とか、宇都宮健児大先生などなどを共産党であるなどと断定してデマを流布しているわけでは御座いませんし、相対的に左の、代々木方面の皆さんのちいさな不和や不一致を顕微鏡的に拡大して喧伝することで切り崩そうとしている、などという「悪い見方」をしているなどと受け取ることもやめていただきたいものです。恐らく大先生一派は近い将来ただ単なるはた迷惑なお騒がせ野郎として放逐されることになるでしょう。それですべておしまいです。ざまぁみろ。バカ。

【オマケ】
『投降主義者の観念論史観』に鑑みれば、『志位とは何の謂いか?』という問いの答えは30年前から現在までただ一つ。「消費主義的で享楽的なサブカルへの批判」である。他ではあり得ない。サブカルニューアカポストモダン。《ニュー・アカデミズム。頽廃と遊戯の哲学》。30年前の悪夢が蘇る。蘇るも何も、最初から最後まで同じだったのだ。いまも同じ。これからもずーっと同じである。ろくでもない司祭ども。異端審問の神学者。クソくだらねえ牧師。坊主。僧侶。それがすべてである。思想とか政治とか、倫理とか運動の世界の住人のすべてなのである。実にろくでもないが、それが実態だ。