話がちがや?

2ちゃんねるで早速、「差別感情剥き出しのレイシスト・ブタダシ」とか書かれたが、僕が君たちを侮蔑するように君たちのほうも侮蔑は自由である。「そうさ?」と佐野史郎のモノマネで言いたい。

そんなことはともかくとして、市民運動や左派が反差別、反レイシズムなどの「政治的に正しい」何かを提起しても、「そうはいってもオレはそんなに正しい生き方してないし、倫理や道徳や正義を強いられても……。それに言う資格あるのか?」と躊躇するのが普通である。だけれども、「ザイトクがひどすぎるから。現場の声を聴いてくれ」とか言われて、とりあえず「そうなのかな」と思うくらいだ。ところが、話があっちゃこっちゃ飛んで、やっぱおまえにも「正しい生き方」を求めるとかいうことになったら、「話がちがや?」と思わないか? 僕は思う。

今回のサブカル論争でいわゆるカウンター側と小田嶋・町山両氏らのやりとりを見ていてそう思ったが、唐突なようだが戦前の小林秀雄と左派の関係を思い出した。類比は限界があるので、そういう留保をつけたうえでの話ですが。柄谷が『近代日本の批評』昭和篇(戦前)で主張した、もともとは平野謙の推測だという小林秀雄が広汎な抵抗のつながりを模索していたという説がある。左翼にとどまらない文学者や政治的自由主義者たちを含めたということだが、仮に平野・柄谷の推測が正しかったとしても(これは大川隆法にでも訊かないと分からない)、左翼知識人・言論人、戸坂潤や中野重治の反応は冷たかった。上述の推測が正しいかどうかを確証する方法はなくても、戸坂の『日本イデオロギー論』における小林を含めた「自由主義者」への批判を読むことはできる。いろいろな意見はあろうが僕はろくでもないと思うが、左翼ってのは100年経っても変わらない部分があるのかなと感じる。

なるほど僕はもちろん(当たり前)、町山氏や小田嶋氏も小林秀雄ではない。木下ちがや氏や野間易通氏も戸坂や中野ではない。それはそうだが、「政治的自由主義者」……。文化人とかなんですが。小林とか西田幾多郎とかね。そういうものに教条的な批判ばかり差し向ける左翼ってどうなのよ。文学主義とか文学者とかに「サブカル」を代入してごらん。政治的自由主義の代わりに経済的新自由主義とかを代入してごらん。そうして本当のところ、問題は政治や経済だけではない。まさに文化なのだ。文化というか主観性というか、ひとびとの……。そこに介入するやり方をどう思うのか、是非皆さんにおうかがいしてみたいところだ。

いやウソだ。君らの意見なんか読みたくない。