吉本花田論争についてのメモ

「花田君はファシストですよ。日本にはああいうタイプはいないが、独、伊にはあるタイプのファシストですね。」

吉本隆明の『転向ファシストの詭弁』に収められている岡本潤の発言(とされているもの。「速記をといたあと」のオフレコ発言だそうだから、それを暴露するのはいささか信義に反するような気もしないではないが)である。日本のファシズム、というか、超国家主義について、農本ファシストのほかにモダニスト=工業化重視のファシストはどうだったのかというのはぼくの以前からの関心だが、上記の論文、というよりエッセイを再読再々読するうちに気になったくだりが幾つかある。

一つは花田が、昭和17年から18年ごろ、『軍事工業新聞』で、「責任の科学性」というような社説をかき、「責任生産量のために陣頭指揮を行なうには、当然、基礎的なデータが出そろっており、このデータにもとづいてたてられた科学的な生産計画があり、この計画の実施が生産責任者自身によって命令されていなければならない」などと軍需生産の合理的な増強を主張していたらしいというところ。勁草書房の全著作集の第4巻の189ページに見える。

もう一箇所は、吉本の「花田的存在」への反感が彼のもともとのモチベーションである労働組合運動から生まれていたという経緯である。少々長くなるが引用しておきたい。

大学をでると職のなかったわたしは、小さな企業につとめ、そこで組合をつくり、指導したという理由で、重だった(原文ママ)労働者といっしょに、そこを追われ、一時、特研生となって大学にかえった。二年後、K地区の中小企業にはいり、数年後、また組合活動にはいった。そこで、障害としてたたかわなければならなかったのは、戦中も、戦後も花田のような転向ファシストに指導されてきた労働ボスたちであった。わたしは、いまでも忘れることはできないが、わたしたちヤンガーゼネレーションの執行部でおこなわれた企業創立いらいといわれた闘争を、きりくずしたのは、H1・H2……などに指導された分子の活動であった。資本家側は、もっぱら、彼ら(吉本ら)学生上がりの執行部は、企業体の運命も、労働者の生活もかえりみず、ストライキさえやればいいと考えている。かれらの指導を排除せよと宣伝した。わたしたちの闘争がきりくずされ、敗北したとき、おどろくべきことに、彼ら(吉本ら)は、日常闘争をかえりみず、ストライキ主義的な指導をおこなったというような資本家側と、まったくおなじセリフのビラをまきちらしたデマゴーグたちは、日共K地区に所属する細胞であった。わたしが、日共内にもH1・H2……のような転向ファシストの影響が存在するのではないかと疑ったのは、じつにこのとき以後のことであり、かならずしも、文学の世界にちかづいて花田清輝のような存在を知ってからではなかった。(花田などは、最初、味方のような顔をしてわれわれ「現代批評」の同人に近づいてきたひとりである。)また、伊藤律事件があってからではなかった。

これは196ページから197ページに掛けての述懐だが、私見ではここに吉本というひとの出発点とモチーフがすべてある。念のために付言しておけば、ほかに客観的な資料とかほかの立場の人々の証言も参照せずに、一方的に吉本の言い分が正当だと考えているわけではない。また、後年の「転向」以後の彼とも全く違っているし、ここで批判されている共産党側の人々にも言い分がたくさんあるだろう。ぼくは吉本隆明新左翼の教祖だという説には納得できないものを感じているのだが、安保闘争とかそれ以後というよりも、ここに彼の非共産党的左翼、また、戦後の共産党よりも(少なくとも労働運動において)尖鋭的であろうとしたという志向がはっきり示されている。そうしてそれがアルファでありオメガなのではないか。改めて読み直してそう感じたのだが、昔から奇妙に思っていたのだが、この吉本というひとはどうして、戦後自滅的な労働運動を展開しては職場を追われ、彼を裏切った同僚たちへの憎悪と怨恨を募らせるということを繰り返してきたのか、ということが自分なりのテーマだったが、ここで花田との論争とつながった。また、日本では入江公康氏『眠られぬ労働者たち』などがくわしく展開している、戦後の第一組合・第二組合という尖鋭的労働運動切り崩しという戦後史とも関係する。もちろんこの分野についてもぼくは素人、門外漢ですので、くわしい専門の皆さんの展開を期待したいが、とりあえずこのことが原点だったのではという感触を得ている。