新しい年━━2013年を迎えるにあたって

新しい年━━2013年を迎えるにあたって

まず、"Horowitz In Hamburg The Last Concert"を聴いている。ぼくは変わらない。死ぬまで変わらない。ただ単にホロヴィッツを毎日毎晩聴き続けていくのだろう。これまでも、これからも。

ホロヴィッツの老年のモーツァルト。天使的な透明への志向。それは最晩年の新境地だった。ホロヴィッツハイドンモーツァルトを人は評価しないだろうが。彼はモーツァルトのコンツェルトは、23番だけをカルロ=マリア・ジュリーニと録音しているが、我儘放題の幼児のように振る舞う老人ホロヴィッツに、若いジュリーニは困惑するばかりの様子がヴィデオに録画されている。

ぼくはだらだらと書いているが、どうにも落ち着かず、やはりFacebookTwitterなどのSNSに書き流すという遣り方でなければ気楽に言いたいことが書けないと感じる。これが10年以上前だとML、メーリングリストだったが、それは欠陥と問題の多過ぎる仕組みだった。少しは技術的な進歩はあったのだろう。

だが、たかおん氏は、我々が米帝(=アメリカ帝国主義)の奴隷であるという事実がある限り、多少の技術的進歩は無意味で、却って反動的、逆効果だという。ぼくが対米従属論者に全く同意しないのは言うまでもないが、結局、「何がどうなろうと駄目」だという御意見は実に有難いものである。

それはそうと。ぼくは数時間前にこう書いた。(骨の髄まで深く病んだ自然)と。それは誰の言葉か忘れたが、ヘーゲルシェリングだったと思うが。ドイツ観念論の一部には、ほとんど狂気すれすれの思考が展開されているようなのである。「よう」というのは、ぼく自身はドイツ語が読めないからだが。

骨の髄まで深く病んだ自然。自然━━自然本性━━NATURE。そこから、病理、さらに倒錯 perversionを少し考察してみた。(人間がその自由なる意志によって、悪を意志、意欲し、その実行を決断すること)と捉えてみた。まあ、実に表面的な適当な意見である。深遠な意見というものは、ぼくにはないのである。全てが表面的であり、適当な思い付きであり、唯名論者のいう(声の風)である。つまり、それは吹き抜け、また、あっという間に消え去ってしまうものなのだ。

プラトンイデアのような堅固なもの、存在、真実在などではなく、思い付きという程度の意味での(アイディア)。(アイディアマン)━━それは悪口にもなるのかもしれない。(君は、機知の人を、機知 guyと呼ぶのか?)

ぼくには圧倒的に大量の思い付きならばある。しかしながら、その一つも実現させることはできないのである。虚しい言葉遊びに終始する以外にないし、また、それで構わないのだ、と思っている。ぼくはニヒリズムシニシズムアイロニーと極めて親和的である。明るい光ではなく、闇の世界の住人である。

たとえ言葉のうえだけにせよ、徹底的な否定の闇、無明の世界の人。本物ではなく贋者なのだとしても、竹宮恵子の漫画ではないが、(通りすがりに殺したい)というような不穏な人。挙動不審な(ヘンなおじさん)(志村けん)。

(このおじさん、ヘンなんです!)━━(ダ・フンダ!)

……それが一体、どうしたというのだろうか……。ま、こういうしょうもない思い付きしか出て来ないのである。かつての(昭和軽薄体)よりも軽薄なまさにあぶく(バブル)のような儚いファンタスムである。それは陽炎のように一瞬現れては、またすぐに消えていく何かのヴィジョンである。

誰もいない世界で。夜、誰もいない自室で、ただ一人で。先の見通しもなく。収入もなく。
希望もなく。

いつも(犀の角のようにただ独り歩め)という初期仏典の言葉だけを想い出す。だが、古代の賢者の知恵と、現在の自分の無価値の対比は、ほとんど残酷なほどである。ぼくは(出家)しない。家に留まる。むしろ、ひきこもりである。

風邪を引き、咳ばかりしている。(咳をしても一人)という、種田山頭火だかの自由律俳句もあった。自由律俳句には全く詳しくないが、(咳をしても一人)というのは卓抜な表現である。時代は変わろうと、我々は孤独という条件を超えることは遂にできないのではないだろうか。

ぼくは(ただ死滅ばかりを眺めている)━━(注視している)━━(観照している)━━などなどと申し上げたいが、そんなことを言って何になるのだろうか。それはただの(決まり文句)である。(死滅を眺める)。というのは。

貧しく単調な繰り返しに過ぎず、内容は全く何もない。
構築されるものはない。生産も創造もされない。

想像はされる。想像と空想、恣意的なイメージの戯れだけはいつまでも続く。しかしながら、そのイメージなり感覚、感情が言葉へと翻訳されることは、遂にない。ぼくはその分裂の深淵を歩むというだけである。(イメージを言葉に翻訳することができないということ)━━(見ているものを言い表す言葉がないということ)━━その凡庸な裂け目に留まる。

実につまらないことである。無意味なことだ。
37歳になってもこれならば、もう、見込みはないだろう。
ダンテの『地獄篇』ではないが、(一切の希望を棄てる)べきだ。希望や思惑を棄てて━━だが、それから一体どうするというのだろうか? やるべきことや展望は全く何もない。岩を押し上げるシーシュポスの労働などというまでもなく、賽の河原で石を積んでは鬼に崩される子供の霊と同じである。

一つ積んでは、親のため……二つ積んでは……。

というような、実に明るい新年でございました。皆さん、おめでとう!