メーデー宣言

昨日、自由と生存のメーデーに参加したが、大いに盛り上がり、素晴らしいデモ&集会になった。いろいろと考える機会になり、よかった。

まず私は、フリーター全般労働組合副執行委員長としてメーデー宣言の一人目として宣言をしたのだが、それは以下のような内容だった。

  • プレカリアートの問題は全ての働く者、そして病気や障がいで働けない者の問題である。言い換えれば全ての草の根の民衆の問題である。
  • しかし、万人がプレカリアートだとか、何でもありだとかいうわけではない。一部の権力者・資本家・金持ちはプレカリアートではない。大企業の経営者もプレカリアートだ、何故なら彼らも「不安定」だから、というような議論があるがそれはナンセンスだ。時給800円で働く人の不安定さと、年間何億円も利益をあげる会社の経営者の不安定さとでは、同じ不安定といっても意味が違うはずだ。

宣言では話さなかったが、前提として現在の資本主義の状態の分析がある。まず、グローバル化である。われわれは労働者としても消費者としても、グローバルな競争に晒されているのである。フォーディズム期と決定的に違うのは、自国の労働者を富ませて自社の製品の消費者になってもらうという動機が全く資本の側に喪失されたことだ。労賃が高いなら、他国に資本を移動すればいいし、製品だって他の国の国民に買ってもらえばいい。という意味で、労働者としても消費者としてもグローバリゼーションに晒されている。

次いで、労働が根本的に「知的」になったということが挙げられる。が、矢部史郎が言うのとは若干意味合いが違う。私の意見では、資本(企業)が労働者に求める知とわれわれの多数が所有している教養とは全く食い違っている。資本が求める高度な知識なり技術なりというのは基本的には理系のものであり、コンピューターのプログラミングやDNA解読などの知識である。しかるに、われわれが持っている知識なり教養というのは文系のもので、哲学なり芸術なりの知識である。

例えば私はフランス現代思想アメリカのジャズ、さらにいえばドゥルーズ=ガタリセロニアス・モンクについてかなり高度で専門的な知識を持っている。が、それは資本制市場では評価=価値づけの対象にはならない。端的にいえば、1円にもならないのである。

さらにいえば、アーティストについての議論についても一言言いたい。問題は、根本的に複製技術の支配的な社会ということだ。ネット然り、CD然り、DVD然り。こういった社会では、一握りの優秀な人がいれば、後はいらない、といった現象が生じている。よく言われるように、詩人として日本で食っていけているのは谷川俊太郎だけだろう、というようなことがある。が、有名無名に関わらず、多数の詩人が存在している。そして、谷川俊太郎究極Q太郎ないし安里健の詩の優劣を評価するのは誰なのか? ジャズでいえば、例えば菊地成孔だろうか。一人の菊地成孔が存在するのと、多数の地域に根ざした草の根の音楽家がいるのと、どちらがいいのか。

私は、資本制市場の評価なり価値づけ如何に関わらず、また「プロ」であるか否か、それで食えているか否かに関わらず、多数の草の根の哲学者(思考者)なり芸術家がいるという状態のほうがいいと思っている。複製技術の支配は、一握りの超優秀な、ないしは資本制市場に認められたアーティストによる独占状態を作り出している。しかし、それにDIYなりインディーズといったやり方で抗っていくべきなのであり、誰が認めずとも自分で自分を認め、自己価値化・自己準拠し、哲学者なり詩人なり音楽家なりを名乗る権利は誰にでもあるはずなのだ。

資本主義の根本は価値法則(交換価値が支配する)と労働力商品化である。だから、資本主義を揚棄するとは、協同労働なり芸術的創造なりによって価値法則を揚棄し、労働力商品化を廃棄することなのである。われわれにどんな社会が実現可能なのかは分からないが、これまでの働き方とは違った自由活動なり創造が前景化した、オルタナティブな生産と交換が組織された状態というのは可能なはずなのだ。

長くなり纏まりもないのでこのくらいにしておくが、こんなことを考えた。