アクセスランキング1位!

1)市民メディア・オーマイニュースに投稿した記事が話題沸騰で、アクセスランキング1位が続いています。賛否両論あるようですが、とにかく議論を提起したということは良かったのではないか、と思っています。以下ですので、もしご興味ある方は、ご笑覧いただければ幸いです。

http://www.ohmynews.co.jp/
http://www.ohmynews.co.jp/MediaCriticism.aspx?news_id=000000001030

2)火曜日、22:00-23:00、作家の雨宮処凛さんと一緒にインターネットラジオに出演します。テーマは、「プレカリアート」(=不安定層)についてです。以下に叩き台を掲載しましたので、ご興味ある方はご覧いただければ幸いです。当日、是非、聴いてみてください。私は吃りがひどいですけれども…。

http://sapporo.cool.ne.jp/hommelets/preacariat.html
http://sapporo.cool.ne.jp/hommelets/precariat2.html

柄谷行人、西部忠、高瀬幸途、朽木水=柳原敏夫『NAM原理』(太田出版)書評

この本は、かつて存在した社会運動NAMの運動の宣言文であり、それが参照する基本的テキストだった。NAMが破綻したことが誰の目にも明白な現在、この書物を読む意味はあるのだろうか。時代の潮流は「マルチチュード」や「プレカリアート」といった多数多様で不安定な存在を政治的変革の主体として要求しているようにみえる。

運動としてのNAMが無惨に崩壊したとしても、それが提起した問いはいまだ残っている。その問いとは、「高度にブルジョア化した社会において、社会主義革命はいかにして可能か。」(p51)という問いである。この問いに、NAMは以下のような見通しと戦略をもって答えようとしていた。先ず、「プロレタリアート」を賃労働に従事し、且つ、生産手段から疎外されているとともに精神的に自由な、「二重の意味で自由」な存在として捉えること。具体的には、「サラリーマン」が典型的なプロレタリアートと考えられた。従来の運動でイメージされていた「プロレタリアート」は、実際には「ルンペン・プロレタリアート」なのだ、というのが柄谷行人の論点である。そして、そのような存在──ある程度金があるために、精神的にも自由で自立的だと考えられた存在──が資本制から非資本制的経済の側に「頭脳流出」し、生産-消費協同組合とLETSでアソシエーションを実現する過程に資本と国家の揚棄への道筋を見ていた。

現在の目から見るとき、以上の展望には以下の問題があるだろう。(1) 「プロレタリアート」の定義が狭すぎ、新自由主義とも言われる現在の資本主義において積極的な問題として浮上している非正規労働や第一世界内部のアンダークラスの問題などを把握できない。(2) LETSが広がるかどうかは、各人の自由=倫理に依存するため、なかなか広がらない。国民通貨の支配に真に対抗できるだけの実質を持った存在になるには(仮になれるとしても)、極めて長い時間が掛かる。

(3) そして最大の問題性は以下のことにある。従来の「党」型の組織論、中央集権性を脱構築するために、代表者選出にあたって籤引きを導入したにも関わらず、柄谷行人が自らそれを否定して、独裁的で自己中心的な態度を取り、NAMが生み出したLETS-Qのプロジェクトを破壊しようとし、且つそれがかなりの成果をあげたことである。NAMの唯一の成果がLETS-Qであったから、この身振りは、NAMの自己否定、自己破壊そのものであった。柄谷行人の暴挙と共に、私自身を含むNAM会員に、それを制止する勇気も能力もない、といったことが露呈された。これについて詳しくは、『重力03』掲載予定の拙稿『Q-NAM問題』をご覧いただきたい。

NAMの破綻の後も柄谷行人は旺盛に言論活動を続けているが、そこにおいて、かつてのような、協同組合とLETSを結びつけることによって資本と国家を揚棄しようという見通しは後景に退き、それに代わって、カント的な意味での「世界共和国」の理念のほうに希望を託しているようにみえる。その当否について判断する余裕も能力もないが、ただ一つ言えることは、かれがかつての自らが創始した運動における誤りを自己批判しないならば、何を言おうと運動圏の人々には説得力をもって響くことはない、ということである。日本を代表する理論家の、お粗末な実践について、積極的に語り批判していくべきだし、別の道を模索すべきである。

最後に、NAMの理論の積極面について述べておきたい。私の見るところでは、労働のありようを現代的なものとして、即ち根本的に知的であり、単なる商品交換というよりはコミュニケーションであるといった性格を持つものしてNAMの理論は把握していた。それは、人間の営みを贈与、収奪と再分配、市場的交換の三者に分け、それとは異なるものとしてアソシエーション的交換を構想したところに現れている。西部忠も強調していたように、その文脈において、LETSは単なる貨幣ではなく、メディアとして把握されており、社会的なものとして理解されていた。新たなアソエーションがどのような姿を取るのか、私達はまだ理解してはいないが、何らかのかたちで新たなメディアが必要なことは確かである。近年、ブログ、SNSWIKIなど多様なコミュニケーションツールが増殖している。それを用いて、積極的にコモンズを構築していくことで、非資本制的生活への第一歩を歩むことができるのではないだろうか。前代未聞の「交換」を創出する、といったユートピア的理念は、いまだ輝きを失っていないのである。