投降主義者の観念論史観

昨日の長文ブログについて乱暴な文章で揶揄が罵倒が多く、支離滅裂な主張で意味がまったくわからない、と2ちゃんねるで批判していただいた。実にありがたい御意見だ。そこで、具体的にひとつ一つ行きたいが、『投降主義者の観念論史観』であるとかそれに関連したブログ記事は事実なのかそうでないのか。

http://blog.livedoor.jp/karoku1991/archives/22078424.html

共産党関係の方は「謀略本」だとおっしゃるが、画像を拝見すると日本共産党中央委員会出版局から刊行された本みたいんだが、そもそもそれが虚偽なのか。86年にそういう事実関係があったのか、なかったのか。ブログ主の解釈や評価が違うのだということなのか。その辺をはっきりさせていただきたい。Amazonで見ても在庫切れで入手不可になっていますが、ちょっとわたしのところに送ってきていただきたいね。

そんな30年前のことはどうだっていいだろう、いまの日本共産党志位和夫氏とは関係ないのだ、とおっしゃるのかもしれない。それはそうかもしれませんが、最近の「運動」界隈とやらの皆さん、学者先生とか活動家様の「サブカル談義」、「90年代サブカル」排除の動向を拝見するとそのへんも含めて深い疑惑と猜疑をおぼえるのですよ。さて、どうなんですかね。表現の自由表現規制憲法解釈論について申し上げたことがいい加減だったのは申し訳なかった。しかし、わたしは選挙においては絶対に反対党に一票を投じます。それだけは約束しておく。

観念論者の「投稿」史観

わたしはとりたてて進歩的でも「反動的」でもないつもりだが、それでも最近の世の中にはわけのわからぬことが多過ぎる。正直ついていけないと感じている。それはとりわけ3.11以降の脱原発/反被曝、放射能問題である。

物理学に明るくないわたしでも、なるほど確かに放射線は危険なのだろう、一定の閾値を超えた放射線被曝があるならば、その危険への対応や対策や防御も必要なのだろうということまで否定するほど頑迷ではない。健康被害があるとしたら、行政や大学、病院が介入する必要もあるのだろうと思う。まずは調査、それから治療を含めたケアということだが、どうやら世の中はそういうことになっていない。

評判のよろしくない2ちゃんねるとか、海のものとも山のものともしれぬ連中がブイブイいわせているTwitterなども含めてのネット言論を含めた世論ということなのだが、どうも読んでいて眼を疑うとか理解し得ない意見や主張が多い。例えば、3.11で福島第一原子力発電所が事故を起こしたわけだが、そこで漏れた放射性物質の影響はどの範囲まで及んでいるのだろうか。わたしは素人なのでくわしいことは専門家やジャーナリストにお任せいたしたいという完全完璧な「臣民」だが、どうも、わたしが住んでいるこの船橋(千葉県ですよ千葉県!)からさえも「みんなで避難」すべきだという2ちゃんねらーや、彼または彼女が参照しているのだという「市民運動家」たちがいるのだという。わたしはそんな「市民運動家」の意見読んだことがありませんが、わたしが知らないだけでそういうアクティヴィストは存在するのかもしれない。存在するのかもしれないというか、大いにありそうなことだ。類推すればね。

それから最近、反原連がIS、イスラム国と同じであるとかないとか失言して炎上したフリージャーナリストの田中龍作氏。その失言そのものについてはわたし自身は一回もそのデモに参加などしていない反原連の問題だと思いますが、彼が今朝例の東海アマをリツイートしていた。東海アマはいつものアレだが、どうも、放射能被曝に人間は打ち勝てないので(そりゃ重力の法則にも打ち勝てませんしね)、「信頼ある反原発なかま同士で過疎の田舎に移住すべきだ」とおっしゃるのだよ。もう数年間見慣れた光景であるとはいえびっくらこいたが、RT、リツイートをあげつらってそれだけで判断してはいけないとはいえ、田中氏も東海アマと同じ意見なのだろうか。そうして、多くの反被曝派は……。

わたしは自由主義者なので、経済的には積極的に新自由主義を支持はしないが(但しアベノミクスやリフレ政策には否定的態度は採らない)、政治的にも文化的にも自由主義である。「文化的にも」というのは、いかなる意味でも、ありとあらゆる意味で「頽廃文化」なんかないよということだね。80年代のバブル期の文化についても90年代サブカルについてもいろいろなことをおっしゃるひとがいるが、わたしは一切聞き入れない。ということで例の木下ちがや氏(「こたつ猫」を名乗る「だっちゃ政治学者」。恥ずかしいことこのうえないですね。いい歳したオッサンがね)・野間易通氏(編集者とかライターってのはこういう「反体制」が多いのかい?)・番長(「民衆の音楽」グライム? 笑わせんじゃねえよバカ)たちが展開する「サブカル論争」に移っていきたいのだが、その前に放射能問題について一言しておくが、別にこの船橋からさえ出て行きたい、引っ越したい、「過疎の田舎」とか外国とかに疎開したひとびとに対して、制止したり反対したり邪魔したりすることはないよ。だけれども、積極的に支持したり支援することも絶対にあり得ないね。そういう「リスク」なんかわたしはないと思うからね。冷酷非情なようだが、それがわたしの最終的で絶対的な意見だ。憲法に住居移転の自由は書いてあるから、現行法の枠内で勝手にしろということだ。それだけ。

そうして最近無意味に賑やかになっている「サブカル論争」ですが、まあ、安倍政権の相対的に右寄りの政策であるとか、秘密保護法とか、将来的な改憲集団的自衛権がどうのとか。また、新大久保や鶴橋などの在特会などのヘイトスピーチがどうのこうのということで、かつての男組・しばき隊、いまのC.R.A.Cとかなんとかの連中がいるわけだが、何がどういう理路でそうなったのかまったく理解不能だが、「冷笑野郎」や「逆張り」や傍観を許さないとかなんとかいうリクツが暴走して、いまや「サブカル」が問題である。その後のネトウヨやヘイトを生み出した(???)80年代から90年代の文化状況から「根本的に批判」すべきであるとかないとかいう妄想に走っている。

もはや呆れ返って口をあんぐり開けて、このキチガイ、政治狂。勝手にしろ。知るかという感じだが、わたしは断固として「反共的」であり「アンチ運動」ですよ。反共というと極右なのか、ファシストなのか、またはネオリベと勘違いされ勘ぐられそうだが、自由主義者ってことだが。そうして、アンチ運動もなにもグループにも政党にも入ってないし、これからも入るつもりはなく、デモにも行きません。集会にも。そういうことなので、わたしには関係ないことだとおもっていたのだが、「サブカル論争」わけわかりませんね。

最近読み始めたばかりなのですが。

最近、日本でも、新自由主義的な風潮に共鳴して、リバタリアン自由至上主義者)と称する人たちが出てきました。「国がそこまで口出しするなよ。そんなの個人の自由にまかせればいいの」といった主張です(蔵研也『リバタリアン宣言』)。国に干渉されたくないという気分が、新自由主義の主張する「小さな政府」などへの共感へむすびついているようです。

個人の自由を尊ぶ気持ちはわかるのですが、新自由主義のめざす「自由」とは、個人の自由のことではありません。むしろ個人の自由を侵害するものです。

にもかかわらず、「自由」という言葉が錯覚をあたえ、新自由主義的政策にたいする漠然とした支持につながっているのではないかとおもいます。そのことによって経済的利益を得る人ならともかく、そうでない人まで受け入れてしまうのは、「自由」という言葉にたいする誤解があるのかもしれません。

私は以前から、新自由主義という呼び方そのものがおかしいとおもってきました。なぜなら「新」がつくまえの自由主義と、「新」がついたあとの自由主義とは、「自由」の中身がまったくちがうのに、おなじ延長線上でとらえられてしまうからです。


これは日本共産党参議院議員大門美紀史先生の『新自由主義の犯罪』(新日本出版社)の13ページから14ページですが、わたしは「共産党マニア」とかそういう意味での「共産趣味者」ではありませんので、大変申し訳ありませんが大門先生のお名前もごく最近まで存じ上げておりませんでした。先生の存在を知ったのは上記の木下ちがや先生が罵倒していたからです。なんでも、おい、土建出身のくせにそんな市民みたいなこと抜かしやがって、労働者の精神を忘れたのか。闘う姿勢を見せてみろ?

とか文字面だけ拝読すれば、いやはやこれが政治学者とか社会学者とか大学の教員なのか、どこぞのチンピラかヤクザなのかと驚く次第ですが、これで木下氏は大門氏からTwitterでブロックされ、そのことへの不満をツイートしていましたので、大門氏の存在を知ったというわけです。そこでその大門氏が新自由主義についての著書を公刊されていると知り、少しずつ読んでみることにした次第ですが、まあわたしの浅い理解ではものすごく常識的な議論だと感じます。ところが、他方、偉大なるだっちゃ政治学者・木下大先生は、どうやらヘイトスピーチ絡みの表現規制への賛否・是非問題で「社会民主主義リバタリアニズム」という対比を提出しておられる。どこから後者を「アナルコ・キャピタリズム」とも言い換えておられたと思いますが、そうすると最終的に福祉国家的な大きな政府を目指す社民主義と小さな政府の「新自由主義」との対立と重ならないのでしょうか。偉大なる政治学の大先生はそこまでは主張されていないとおっしゃるかもしれませんが、そうだとしたら、最近の「キモヲタ」「セクシスト」(艦これとか、『マルクスガール』山本夜羽音先生の二次元美少女アニメ趣味程度でそういう決め付けなんですかね)、「サブカル論争」まで幅広く拝見いたしますが、戦前の戸坂潤の『日本イデオロギー論』、そこにおける小林秀雄西田幾多郎などなど「政治的自由主義」「文学主義」「解釈学」などへの「行き過ぎた教条的で公式主義的な批判」をどうしても想起しないわけには参らないんですよ。木下大先生は、社会学なかまの北田暁大先生なども援用しつつ、このところ吉本隆明スガ秀実氏への不信や批判も喧伝されていることですし、そういう「政治主義」、「だっちゃ政治学主義」なのではないかという疑念も日々大きくなる一方なので御座います。

もっとも、左翼でもラディカルでも活動家でも市民運動家でもない、リベラルと称してはいるが実際には保守反動のエゴイスト、現状肯定の体制派デブ、ごくたまに(違うと思うんですが)極右ファシストとか新自由主義者とか、はたまた「殺人者」「極悪人」とも罵られておりますこのわたくし、陛下の臣、阿Qの……いえ。「阿久悠」の徒を自認する、しょうもない市井の一匹の豚か茹であがった蛙のような卑小な存在でしかない、まったく虫けらのようなこのわたくしに、木下大先生たちが展開される深遠なる大政治学のものすごい真理、「内的な真理と偉大さ」が理解できるわけもないというのは自明なことなのであります。大門先生は共産党の国会議員ですが、まあ、そういう名士に比較しても政治学の大先生という偉大なる政治学者、学者先生、知識人の絶対的優位というのは火を見るよりも明らかですので、恐らく、大門先生の躊躇した書き方にも書き方にもかかわらず、とりわけ90年代サブカルなんぞと結び付いたリバタリアニズム、「自由至上主義」は反動とか「ネオリベ」として否定される運命なのでしょう。木下先生は次から次に罵声を浴びせてこられております。いわく、「表現の自由」に関する「日本国憲法の薄っぺらい読み」(どうもすいませんでした。なにぶん憲法学者でも偉大なるだっちゃ政治学者でもありませんもので。社会学者でも。本当にすいませんでした)。「世界基準からすれば日本社会は自由過ぎる」(ヘサは──臣・攝津はちがうのですが──国内的、ドメスティックであるそうで、視野が狭くて誠に申し訳ありません。ですが、わたくしはいまのこの過度の自由な日本社会が大好きであります)。「表現の自由はおめーらのちんこの自由ではない」(これまた失礼いたしました。どれほどマイノリティであろうとなかろうと、生物学的に男性身体に生まれついた以上、「男性特権」を問題視されるのは当たり前のことなのであります。例のはるなはえらかったですね)。

まただっちゃ政治学の大先生とその愚連隊、チンピラなかま、いや子分どもは河添誠先生とも揉めております。日本の労働組合運動の重鎮で、いつも社会運動のあるべき姿について呟いてばかりおられる偉大な方で、やはり、誤ることなど絶対にあり得ない方で御座います。氏によれば、いまの安倍政権を極右とかファシストと規定してしまうと、新自由主義の側面が見えなくなってしまうそうですが、体制派デブの反共主義者である臣・攝津にはどうでもいいことなんですが、ですがそれでも、ことが「サブカル」とかなんとか、それにとどまらない現在の「自由過ぎる」日本社会に及ぶとなれば黙っているわけには参りません。卑小なる虫けらのような臣・攝津、わたくしめにできることは、せいぜい、大先生に反対して自分の無力な一票を反対党に投じることくらいしかないのであります。あっ、ここで、別に木下大先生とか河添大先生とか、宇都宮健児大先生などなどを共産党であるなどと断定してデマを流布しているわけでは御座いませんし、相対的に左の、代々木方面の皆さんのちいさな不和や不一致を顕微鏡的に拡大して喧伝することで切り崩そうとしている、などという「悪い見方」をしているなどと受け取ることもやめていただきたいものです。恐らく大先生一派は近い将来ただ単なるはた迷惑なお騒がせ野郎として放逐されることになるでしょう。それですべておしまいです。ざまぁみろ。バカ。

【オマケ】
『投降主義者の観念論史観』に鑑みれば、『志位とは何の謂いか?』という問いの答えは30年前から現在までただ一つ。「消費主義的で享楽的なサブカルへの批判」である。他ではあり得ない。サブカルニューアカポストモダン。《ニュー・アカデミズム。頽廃と遊戯の哲学》。30年前の悪夢が蘇る。蘇るも何も、最初から最後まで同じだったのだ。いまも同じ。これからもずーっと同じである。ろくでもない司祭ども。異端審問の神学者。クソくだらねえ牧師。坊主。僧侶。それがすべてである。思想とか政治とか、倫理とか運動の世界の住人のすべてなのである。実にろくでもないが、それが実態だ。

話がちがや?

2ちゃんねるで早速、「差別感情剥き出しのレイシスト・ブタダシ」とか書かれたが、僕が君たちを侮蔑するように君たちのほうも侮蔑は自由である。「そうさ?」と佐野史郎のモノマネで言いたい。

そんなことはともかくとして、市民運動や左派が反差別、反レイシズムなどの「政治的に正しい」何かを提起しても、「そうはいってもオレはそんなに正しい生き方してないし、倫理や道徳や正義を強いられても……。それに言う資格あるのか?」と躊躇するのが普通である。だけれども、「ザイトクがひどすぎるから。現場の声を聴いてくれ」とか言われて、とりあえず「そうなのかな」と思うくらいだ。ところが、話があっちゃこっちゃ飛んで、やっぱおまえにも「正しい生き方」を求めるとかいうことになったら、「話がちがや?」と思わないか? 僕は思う。

今回のサブカル論争でいわゆるカウンター側と小田嶋・町山両氏らのやりとりを見ていてそう思ったが、唐突なようだが戦前の小林秀雄と左派の関係を思い出した。類比は限界があるので、そういう留保をつけたうえでの話ですが。柄谷が『近代日本の批評』昭和篇(戦前)で主張した、もともとは平野謙の推測だという小林秀雄が広汎な抵抗のつながりを模索していたという説がある。左翼にとどまらない文学者や政治的自由主義者たちを含めたということだが、仮に平野・柄谷の推測が正しかったとしても(これは大川隆法にでも訊かないと分からない)、左翼知識人・言論人、戸坂潤や中野重治の反応は冷たかった。上述の推測が正しいかどうかを確証する方法はなくても、戸坂の『日本イデオロギー論』における小林を含めた「自由主義者」への批判を読むことはできる。いろいろな意見はあろうが僕はろくでもないと思うが、左翼ってのは100年経っても変わらない部分があるのかなと感じる。

なるほど僕はもちろん(当たり前)、町山氏や小田嶋氏も小林秀雄ではない。木下ちがや氏や野間易通氏も戸坂や中野ではない。それはそうだが、「政治的自由主義者」……。文化人とかなんですが。小林とか西田幾多郎とかね。そういうものに教条的な批判ばかり差し向ける左翼ってどうなのよ。文学主義とか文学者とかに「サブカル」を代入してごらん。政治的自由主義の代わりに経済的新自由主義とかを代入してごらん。そうして本当のところ、問題は政治や経済だけではない。まさに文化なのだ。文化というか主観性というか、ひとびとの……。そこに介入するやり方をどう思うのか、是非皆さんにおうかがいしてみたいところだ。

いやウソだ。君らの意見なんか読みたくない。

サブカル論争

仕事の合間にちょこっと片手間に更新してるだけなんだが、僕は傍観者としてネットを眺めるだけで、でも不思議に思うことがたくさんある。最近のTwitterの「サブカル論争」などもそうで、政治学者の(「自称」ではないらしい。「詐称」でも。僕は「運子の海を漂う詐称哲学者」だそうだがw)こたつ猫こと木下ちがや氏によれば、まあリツイートですが、それで3.11以来のさまざまないざこざの「結着がつい」て「なにかが炙り出された」そうだが、僕にはなんのことやらさっぱりわからない。

「詐称」哲学者というよりも『沙粧妙子』マニアの「沙粧」ヲタとしては、90年代サブカルがいい悪いとかなんの話だかわからない。どうやら冷笑的で参加しないとか、もっとざっくばらんに申し上げれば俺たちに協力しないのがけしからんというような話のようだ。そうして、まあ、神学者連中やろくでもない詭弁家やデマゴーグ、イデオローグには他人を非難する理由はでっち上げやケチ、難癖を含めて幾らでも見つかるわけである。

サブカルがどうの、90年代がとかわけがわからない、意味不明だが、どうもその只中にいた山本夜羽音氏や北田暁大氏らも木下氏らに賛意を示して「転向」している。「転向」っていっちゃ悪いかな? 東浩紀氏も「転向」したそうだが、実に素晴らしいことである。80−90年代の気分で非政治的に惰眠を貪っていてはいけない、けしからんそうだが、知ったことではない。僕は「非転向」である。もちろんトチ狂った政治主義者どもの意味でそうなのではない。

この手のことは最低限の法整備だけしてあとはほっとくのが一番いいのである。それ以上はすべて余計だ。君らは素晴らしい人間性による美しい社会を作りたいのかもしれないが、そんなもん作っていただかなくて結構。僕は全力で邪魔をします。反革命としてね。昨日一番笑ったのは「ベビーカー論争」。確かに電車に妊婦やベビーカーを押したお母さんがいたら席くらい譲ったほうが優しい人だなとなるかもしれない。だが、あんたらのそのくだらねえパリサイ人根性は一体なんですか? 僕は今後絶対に席を譲らないことに決めました。

だいたい橋下騒動からそうだった。橋下の政治的失言からあちこちに飛び火して、東氏も「男性の身体は性欲をインストールしたマシーン」でやられたが、友人のI氏も矛先が自分に向かわないかと神経質になっていた。I氏は風俗通いをしていると公言していたからだが、必ずしも杞憂や被害妄想ともいえないのは、共産党性風俗産業の規制強化を掲げていますのでね。どこまで飛び火するかわからないわけだ。

フェミの、またそれ以外の女性や理解ある男性たちからの非難の声も予想されるが、I氏に関しては僕は彼ではないので代理で反論するとかいうことはあり得ない。だが、今回の「サブカル」がどうのについては首を傾げ、全くどうかした政治狂どもの寄り集まりなのだと結論している。

吉本花田論争についてのメモ

「花田君はファシストですよ。日本にはああいうタイプはいないが、独、伊にはあるタイプのファシストですね。」

吉本隆明の『転向ファシストの詭弁』に収められている岡本潤の発言(とされているもの。「速記をといたあと」のオフレコ発言だそうだから、それを暴露するのはいささか信義に反するような気もしないではないが)である。日本のファシズム、というか、超国家主義について、農本ファシストのほかにモダニスト=工業化重視のファシストはどうだったのかというのはぼくの以前からの関心だが、上記の論文、というよりエッセイを再読再々読するうちに気になったくだりが幾つかある。

一つは花田が、昭和17年から18年ごろ、『軍事工業新聞』で、「責任の科学性」というような社説をかき、「責任生産量のために陣頭指揮を行なうには、当然、基礎的なデータが出そろっており、このデータにもとづいてたてられた科学的な生産計画があり、この計画の実施が生産責任者自身によって命令されていなければならない」などと軍需生産の合理的な増強を主張していたらしいというところ。勁草書房の全著作集の第4巻の189ページに見える。

もう一箇所は、吉本の「花田的存在」への反感が彼のもともとのモチベーションである労働組合運動から生まれていたという経緯である。少々長くなるが引用しておきたい。

大学をでると職のなかったわたしは、小さな企業につとめ、そこで組合をつくり、指導したという理由で、重だった(原文ママ)労働者といっしょに、そこを追われ、一時、特研生となって大学にかえった。二年後、K地区の中小企業にはいり、数年後、また組合活動にはいった。そこで、障害としてたたかわなければならなかったのは、戦中も、戦後も花田のような転向ファシストに指導されてきた労働ボスたちであった。わたしは、いまでも忘れることはできないが、わたしたちヤンガーゼネレーションの執行部でおこなわれた企業創立いらいといわれた闘争を、きりくずしたのは、H1・H2……などに指導された分子の活動であった。資本家側は、もっぱら、彼ら(吉本ら)学生上がりの執行部は、企業体の運命も、労働者の生活もかえりみず、ストライキさえやればいいと考えている。かれらの指導を排除せよと宣伝した。わたしたちの闘争がきりくずされ、敗北したとき、おどろくべきことに、彼ら(吉本ら)は、日常闘争をかえりみず、ストライキ主義的な指導をおこなったというような資本家側と、まったくおなじセリフのビラをまきちらしたデマゴーグたちは、日共K地区に所属する細胞であった。わたしが、日共内にもH1・H2……のような転向ファシストの影響が存在するのではないかと疑ったのは、じつにこのとき以後のことであり、かならずしも、文学の世界にちかづいて花田清輝のような存在を知ってからではなかった。(花田などは、最初、味方のような顔をしてわれわれ「現代批評」の同人に近づいてきたひとりである。)また、伊藤律事件があってからではなかった。

これは196ページから197ページに掛けての述懐だが、私見ではここに吉本というひとの出発点とモチーフがすべてある。念のために付言しておけば、ほかに客観的な資料とかほかの立場の人々の証言も参照せずに、一方的に吉本の言い分が正当だと考えているわけではない。また、後年の「転向」以後の彼とも全く違っているし、ここで批判されている共産党側の人々にも言い分がたくさんあるだろう。ぼくは吉本隆明新左翼の教祖だという説には納得できないものを感じているのだが、安保闘争とかそれ以後というよりも、ここに彼の非共産党的左翼、また、戦後の共産党よりも(少なくとも労働運動において)尖鋭的であろうとしたという志向がはっきり示されている。そうしてそれがアルファでありオメガなのではないか。改めて読み直してそう感じたのだが、昔から奇妙に思っていたのだが、この吉本というひとはどうして、戦後自滅的な労働運動を展開しては職場を追われ、彼を裏切った同僚たちへの憎悪と怨恨を募らせるということを繰り返してきたのか、ということが自分なりのテーマだったが、ここで花田との論争とつながった。また、日本では入江公康氏『眠られぬ労働者たち』などがくわしく展開している、戦後の第一組合・第二組合という尖鋭的労働運動切り崩しという戦後史とも関係する。もちろんこの分野についてもぼくは素人、門外漢ですので、くわしい専門の皆さんの展開を期待したいが、とりあえずこのことが原点だったのではという感触を得ている。

ビル・エヴァンス/ラスト・レコーディング

昨晩、ビル・エヴァンスの『ラスト・レコーディング』の1枚目を聴く。原題は"Consecration" (1)。目醒めて入浴しながらクロノス・カルテット・ウィズ・ロン・カーター『モンク・スイート』。それが終わったので原田節『ガーネット・ガーデン 不思議な楽器 オンド・マルトノ』を聴く。

もうすぐ5時だが外はまだ真っ暗で、夜が明けるのを麦茶を飲みながら待っている。先程またしても2ちゃんねるに神経質に反応したが、別にインターネットであるとかないとか、2ちゃんねるとか匿名とかいうことに限らず、他人や社会・社交は煩わしく気乗りのしないものである。だからやっていないわけだが、他人の個人生活、私生活や「心」、内面、価値観の問題に不要な口出しをしたり干渉したり、あたかも説教強盗みたいな訓示訓戒を垂れたりしたいクズが多過ぎる。その人が匿名であろうと実名顔出しであろうとぼくはとことん徹底反撃し報復する。当たり前のことである。例外はないし、少しも悪いと思わない。当然の権利である。

Consecration Volume 1

Consecration Volume 1

「せっちゃん、自分さえ良ければ良かったんだね。。。」って君は左派か平和主義の活動家なのかそれとも単なるそのへんの井戸端会議のおばさんなのか。いい加減にしてもらいたいものだが、「食欲と性欲と」などと自分の下劣をまず愧じるがいいのだ。ふざけるんじゃない。君にはそういうことを、こともあろうにこの私に向かって抜かす資格や権利はない。全くないのだ。このクズ。わかったか。ゴミ。

何冊かの気になる本

文藝春秋から1978年に出ている『思想に強くなること』という田中美知太郎の評論集があるが、1975年8月の『戦後三十年と今後の日本』という文章に次のくだりがある。

三十年まえ、降服後の日本をどうするかということについて、当時占領軍のブレーンとなった人たちのうちには、日本の工業化を禁止して、これを純然たる農業国にとどめておく考え方もあったらしく、当時の新聞には大々的にそんなことが報道されていたことを記憶している。もしこのような政策が実際に行なわれていたとしたら、今日の日本は公害論者の言う「青い空と清らかな水」の自然を保持していて、少し詩人的な言葉で考えれば、「美しい日本」だったかも知れない。しかし国民の実際生活は、東南アジアの人たちの生活よりも低レベルにあったかも知れない。

今日の日本人は、どちらがよかったかを、本気で考えてみたらいいのである。(以下略。235ページ)

田中の時事的な意見は保守派と評するよりほかないものだが、ここでつまらない挙げ足を取られないように補足しておけば、農業と漁業だけの伝統社会をという意味の保守ではなく、現体制(というか当時の体制)の擁護論という意味だが、だから、反動だと片付けるには余りに本質的な提起だとしか言いようがない。3.11以降、資本主義〜新自由主義や科学・技術文明への懐疑論が一斉に花開き、政策ヴィジョン提言としてのエコロジスト的「脱成長」が云々される現在だから尚更そうみえるのだが。

第二に1962年に現代思潮社から出た吉本隆明の『擬制の終焉』の表題作。1960年の文章である。

また、これら社会の利害よりも「私」的利害を優先する自立意識は、革命的政治理論と合致してあらわれたとき、既成の前衛神話を相対化し、組織官僚主義など見むきもしない全学連の独自な行動を生み、まず、戦前派だったら自分でこしらえた弾圧の幻想におびえてかんがえもおよばないような機動性を発揮した。戦前派が、全学連派を暴走とよんだとき、天皇制権力からいためつけられたときの傷がうづくのを覚えたのだが、全学連派は、すくなくとも幻想された弾圧恐怖からあたうかぎり自由であった。ここに、戦後社会の進展度と権力構造の変化と大衆の意識構造の変化にたいする戦前派と戦争世代以後の理解の断層があらわれたのである。

このような「私」的利害の優先原理の滲透を、わたしは真性の「民主」(ブルジョア民主)とし、丸山真男のいう「民主」を擬制「民主」であるとかんがえざるをえない。いわば、それは擬制前衛思想のピラミッドから流れくだったところに生れる擬制進歩主義の変態にほかならなかった。(35ページ)

念のために言い添えれば別に吉本の意見が素晴らしいとか正しいと申し上げたいわけではない。これは安保闘争についての論評なのだということは念頭に置かなければいけないし、それ以上の一般論にしても仕方がないわけだが、大衆というかみんな、個々人が私的利害でのびのび動けば常にそれだけでいいのか、というのは大いに疑問である。それはそうだが、これは全学連についてのひとつの意見なのだということだけに留める。

保守とか反動とか、または転向派と目される著者ばかり取り上げてきているが、毛色の違うものとしてミルの『自由論』。邦訳は中公バックス世界の名著。原文はJohn Stuart Mill "On Liberty" (Penguin Classics)。20年前、学生時代からRoutledge Philosophy Guidebook ToというシリーズのJonathan Riley "Mill: On Liberty"と併読している。折に触れて読み返しているが、最初のほうの言論の自由についての議論、古典的なリベラリズムの考え方を提示したものだが、そこが気になる。

吉本の議論が1960年安保闘争における全学連を主題にしたものであったように、ミルの意見も、確かに一般論として言論の自由の擁護を謳ってはいるのだが、特殊特別なケースとして宗教的信仰の事例を挙げ、古代におけるキリスト教とそれへの迫害を論じていたはずである。もちろんその狭い文脈に留まるものではないのだが、truth、真理とか真実といっても、我々が通常考える何かとは異なるのではないかとは思うべきであろう。それはそうと、それが気になったというのは、「部分的に真である可能性がある意見」を迫害することのみならず「誤りである意見」も弾圧というか統制すべきではないと主張されているということである。

リベラル派の見解の雛形、原型として誠に一般論としてはよく分かる意見であり、確かにそうだと私も思う。そうはいっても、いつも繰り返しているように3.11以降今日に至るわけのわからないネット言論状況を見るに、政府による検閲や規制、弾圧などはもちろん望ましくないのだとしても、ひょっとしたらごく小部分、一部は真実も含むかもしれないが、全体としておかしい主張や、または全くの誤謬、デマの類いまで擁護しなければならないのかという個々人のリテラシーやそれこそ倫理観は問われるべきであろう。そう思うのだが、どうだろうか。

The Routledge Guidebook to Mill's On Liberty (The Routledge Guides to the Great Books)

The Routledge Guidebook to Mill's On Liberty (The Routledge Guides to the Great Books)